生きるためには戦友の亡骸をも・・・インパール作戦の体験記

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これは私が実際にインパール作戦から生還された元日本兵の方からお伺いした話です。

今から9年前くらいの夏の暑い日、私は靖国神社に参拝に行きました。
その頃はまだ神社の境内で軍歌を演奏している人がいたり、戦友会の方々が団体で参拝に訪れたりもしていました。

私は靖国神社のカレンダーを販売しているブースを見つけ、そこでカレンダーを購入しました。
「若いのに参拝して偉いね。」と声をかけてくださった方こそ、私がお話をお伺いした元日本兵の方だったのです。

お話してくださった3名の元日本兵

カレンダーの販売ブースは、元日本兵の方々が戦没した戦友の冥福を祈るために行っていると販売している方から聞きました。

そこで私は「個人的ではありますが、太平洋戦争について勉強しています。もしよろしければお話をお伺いさせていただけませんでしょうか?」とお伺いしたところ、ぜひ話したいとおっしゃってくださり、近くの偕行社に移動してお話をお伺いさせていただきました。

この時お話させていただいた方は3名の元日本兵の方々でした。
皆さん出身は埼玉県、神奈川県、新潟県と違いましたが、同じインパール作戦に派遣された方々でした。

私は新潟県出身のため、同郷の方から生の戦争体験をお伺いできることは何かの縁ではないかと感じました。

地獄の戦場へ

まず皆さんが口をそろえて言っていたことは、「戦地に行くだけでも本当にきつかった」ということです。

インパールへ続く道は山を越えたらまた山の連続で、本当に険しい道だったそうです。重い荷物を担ぎ悪路を前進し続ける毎日ですが、行きですらもう十分な食料は足りていなかったと言っていました。

「俺たち若かったからできたけどさ、今なら無理だよね!」と朗らかに笑う姿の奥に、地獄の戦場で命を落とした仲間たちを思う悲しそうな表情を感じました。
マラリア、デング熱、赤痢と南方特有の病気で亡くなる戦友は後を絶たず、「とにかくきつかった。もう生きているのがやっとだった。」とも言っていました。

行きでさえこのように命がけだったわけですが、戦闘も本当に地獄の有様だったそうです。
お話をお伺いした方のうち2名は無傷で病気もなく生還できたとおっしゃっていましたが、1人は戦闘中に飛んできた砲弾が自分の近くで炸裂したことによる負傷で左耳が聞こえなくなったそうです。

「弾なんかほとんどなかったけどさ、それでも頑張ったんだよ。できるだけの抵抗はした。でも敵さんの砲撃は本当にすごかったね。何もかも吹っ飛んじゃうんだから!」と聞いたとき、私と同じくらいの年齢で出征し、貴重な青春時代を戦争に奪われた方々が体験してきたことは計り知れないと強く感じました。

しかし、彼らにとって本当の地獄は戦闘中ではなかったことを、この時初めて知りました。

白骨街道は本当だった

3名の方々がインパール作戦で一番印象に残っていることは、敗走路でのできごとだったそうです。
「インパール作戦の敗走路は白骨街道」とよく聞きますが、本当にそうだったとおっしゃっていました。

「道を遺体が埋め尽くしていた。もう戦友だろうと上官だろうと、踏まないと通れないの。虫の息のやつもいたけど、自分もいっぱいいっぱいだったから助けられなかった。

遺体を踏んで前に進むときは、”本当に申し訳ない。許してくれ。”って心の中で祈りながら進んだよ。」というお話を聞いたとき、私は言葉が出てきませんでした。

人が当たり前のように亡くなる日々。ここまでして日本はなぜ戦争をやめなかったのか。多くの犠牲の上に、当時の日本の政府や大本営は何を求めていたのか。
人の命の重さを軽んじていた当時の日本に恐怖を感じました。

それと同時に、時代の波に飲まれ、貴重な人生を知らない国で終わられることになった多くの若者たちがかわいそうでなりませんでした。

ここで私は、満足な食料も栄養源もない敗走路を進んだ3名の方々から、最も衝撃的なお話をお伺いします。
それは、「死んだ仲間のリュックを漁り、使えるものは何でももらった。食べ物は本当になかったから、遺体の頬の肉をスプーンでえぐって食べた。だからみんな頬の肉がないんだ。」ということです。

インパール作戦の本はかつて読んだことがありました。しかし、このような衝撃的な事実があったことは本には書かれていませんでした。
戦争は戦地での殺し合いだけでは済まされず、時には人権をも壊してしまう本当に恐ろしいものだと強く感じたことをはっきりと覚えています。

By British Information Service, information service operated by UK government during WW2. (Library of Congress) [Public domain], via Wikimedia Commons

心の支えになったブンガワンソロの歌

私は不躾にも「慰安所はありましたか?」などという質問をしてしまいました。
しかし、3名の方々は優しく次のように答えてくださいました。

「慰安所はなかったよ。こんな施設があったことは戦後知ったね。俺たちは本当に楽しみがなかった。だからね、ブンガワンソロの歌を覚えて、みんなで歌って励まし合ったの。」

ブンガワンソロはインドネシアの歌ですが、おそらく南方戦線から来た兵士たちが広めたのでしょう。インパール作戦に派遣された元日本兵の方々もこの歌をみんな知っていたそうです。
辛いときや抑えきれない悲しみが込み上げてきたとき、どこからともなく誰かがブンガワンソロの歌を歌い始め、みんなで歌ったと言っていました。

私もこの歌を知っていたので3名の方々と一緒に歌わせていただきました。「すごいね!」と笑う姿は、まるで当時に戻ったかのようにキラキラしていたことが印象的でした。

彼らはその後タイ王国に入り、しばらくカンチャナブリにいたそうです。
カンチャナブリではビルマで経験した地獄の日々とは打って変わり、とても落ち着いた日々だったとおっしゃっていました。

私はその後、実際にカンチャナブリに行ってみました。ここで知ったことや感じたことは、また別の機会にお伝えしようと思います。

夢に出てくる戦友たち

「あの戦争を生きて帰れたことは本当にありがたいよ。本当にたくさんの仲間が亡くなったね。夢に出てくる少尉や戦友たち、あっちの世界でどんな暮らしをしているかな…」
そう話す3名は、壁に掛けられた兵士の絵に、戦友たちの面影を探しているように見えました。

元兵士の方々から実際にお話をお伺いし、本には書かれていない戦地の真実を知ることができ、私は驚愕の連続でした。
20代の貴重な青春時代を戦争に捧げた多くの若者たちがいたこと。そして、多くの貴重な命の上に今の時代があること。
この平和のありがたさを多くの人に伝えるために、私はこれからも太平洋戦争の真実を勉強して伝えていきたいです。


Writing by  meawno
中学生の頃から様々な太平洋戦争の戦記を読むようになり、日本のみならず海外の戦争博物館にも勉強に行く超アクティブ女子です!

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