西暦713年に、元明天皇は全国に対し風土記撰進の官命を出しました。
現在まで風土記として伝承されているものは、不完全なものまで含めても、「常陸国風土記」、「播磨国風土記」、「出雲国風土記」、「豊後国風土記」、「肥前国風土記」。
風土記の内容は5項目から成り、その中の1項目として「古老が伝える旧聞異事の記載」があります。
常陸国風土記に記載されている、古老の話も含めて日本人と富士山の関わりについて述べていきます。
福慈岳にまつわる話
常陸国風土記においては、「富士山」は「福慈岳」(ふじのやま)」と呼ばれていて、富士山の最初の呼び名であった可能性があります。この名前から受ける感じは、音読は現在の呼び名と同じですが漢字からは人々に幸せをもたらす慈愛に満ちた美しい山という感じを受けます。
元明天皇在位の時代頃までは、富士山の噴火活動はほぼ収まっていて、人々に恐怖感を与えるような存在ではなかったと推測されます。したがって、富士山は穏やかな名前で呼ばれていたのでしょう。
また、古老の話として以下が伝えられています。
昔、神祖尊(ミオヤノミコト)という神がいました。この神は福慈岳の神および筑波岳の神の親神(オヤガミ)です。
神祖尊が諸々の神の居場所を巡行した際、駿河国の福慈岳に到着すると、福慈神(フジノカミ)にここを宿所としてほしいと頼みましたが、福慈神は「今は新嘗祭(にいなめさい)のため、お世話ができません」と言って断った。
これを恨んだ神祖尊は泣きながら「私はお前の親だというのに、宿を貸さないのか!お前が治める山は生きている限り、年中雪が降り寒さが襲い、人が登らなくなり飲食物も供えなくなるだろう」と罵ったのです。
噴火は呪いなのか?
この常陸国風土記が作成された後、時代が移っていき、それまで比較的穏やかであった富士山が暴れ出します。
福慈神に対し神祖尊が投げ付けた悲しみの言葉が影響したのかどうか判りませんが、主に西暦800年の延暦大噴火、西暦864年~866年の貞観大噴火、西暦1707年の宝永大噴火が起きたのでした。
延暦大噴火では、相模国足柄路が一時閉鎖されました。貞観大噴火では、当時あった大きな湖(せの湖)を溶岩が埋めて西湖と精進湖に分断するとともに、青木ヶ原の樹海形成の原因にもなっています。宝永大噴火では、江戸市中まで大量の火山灰を降下させました。
平安時代の富士山の大噴火に対し、物理的に対処するすべのない朝廷は、神社を通じて噴火抑制の祈祷を懸命に行うよう命じています。
富士山は美しくも恐ろしい
平安時代の民は、日本列島が沈没するのではないかというような不安に駆られたことと思います。
現在では富士山のマグマの動きの観測など、科学的な対処が取り組まれ、神仏頼みの状態からは脱却しつつはありますが、噴火という自然の脅威には太刀打ちすることは出来ません。
美しい富士山を鑑賞して楽しみ、山頂から御来光を楽しむ世になっても、神祖尊の怒りを抑え込んでいる富士山に畏れを感じざるを得ないでしょう。
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