逆境をはねのけた山陰の覇者「尼子経久」

  • 2020-12-06
  • 2020-12-05
  • 戦史
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戦国大名のはしりといえば普通、北条早雲を示すことが多いですが尼子経久はこの北条早雲とまったく同時期、同様に国盗りに奔走、大成した人物。
つまりは歴史上、尼子経久も戦国大名のはしりなのです。

経久は彼一代で山陰・山陽11ヵ国の太守となった人物、それも出雲守護代の地位を剥奪されたあと徒手空拳、浪人の身からのしあがったのです。
その飛躍の一歩が文明18年(1486年)元旦の月山富田城奪回戦で、経久はこのとき29才でした。

これより2年前の秋、経久は主君の守護京極氏に叛き追放され、守護代の地位も権力も領地も本拠の月山富田城も何もかも、まるごと失いただの浪人になってしまいました。
「陰徳太平記」によると、その後に経久は諸国を流浪したあげく、食うに困って寺の沙弥(給仕)のようなことをしていたそうです。

また、これには別のつたえがあって「雲陽軍実記」は中国山地の山里にある母の実家に隠れ住んだと記しており、これが真相に近いらしい、いずれにしても経久は落魄しました。
だが、まる1年たって冬を迎えるころ経久は月山富田城奪還・尼子家回復を策し、山中入道ら出雲に残るわずかな旧臣と連絡をとり、その結果、山中一党17人と旧臣56人の同志を得ますがここまでが精一杯でした。

この人数で要害の月山富田城に攻めかかるは、岩に卵を打ち付けるようなものです。
ではどうするか、経久主従は相談の結果、月山山麓に住む鉢屋賀麻党を味方に誘うことにしました。

鉢屋というのは祭礼や正月などに芸を演じる芸能集団だが兵役もつとめ、その賀麻党は毎年元旦に城に入り、祝いの舞を演じることになっていました。
経久はここに目を付け、賀麻党は旧城主の頼みとあって二つ返事で味方になり一党の人数は70人、これで尼子勢は140人ほどになりました。

無論、まともに城攻めのできる数ではない、しかし経久は賀麻党の特質を利用することで勝算ありと読んでいました。
そして新しい年の元旦を待ちます。

文明17年(1485年)晦日の夜半、尼子勢は動き、まず経久以下旧臣部隊が勝手知った城内各所に潜み手はずの合図を待ち受け、やがて文明18年元旦、時刻は午前3時ごろ、賀麻党70余人は笛・太鼓もにぎやかに城の大手門にくりこんだ。
一党はみな烏帽子の中に兜を冠り、素おうの下に具足を付け武器を隠し持っていました。

城内では、今年は来るのが早いぞと言いながら「善は急げということじゃ、めでたい、めでたい」と浮かれて、武士も女子供も起き出してきて賀麻党の舞の見物に集まります。
ときに、かねて忍びこんでいた経久以下の部隊が賀麻党の太鼓の音を合図にどっとたち、城内各所に火を放ち鬨の声を上げて乱入、と同時に賀麻党も烏帽子・素おうをかなぐり捨てて見物の城衆に襲いかかります。

城内は一瞬のうちに修羅場と化しました。
尼子勢は武器ひとつ取る間もない城兵を殺戮しつづけ、やがて城主塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)も自ら槍をふるって戦ったのち自刃して果てます。

こうして経久は凄惨な殺戮により、月山富田城奪回に成功します。
月山富田城奪回に成功した経久は、出雲国内の有力武将の三沢・三刀屋・赤穴氏らを屈服させ勢力を拡大して、事実上の出雲守護となります。

永正5年(1508年)、大内義興らと将軍足利義材を奉じて上洛、足利義澄らと戦い帰国後には出雲・隠岐・石見・伯耆・因幡・安芸・備後・備中・備前・美作・播磨11ヵ国を制覇。
とくに石見を支配下においたことは大きく大森銀山を掌握できたこと、大森銀山は分国内に産出する鉄や対朝鮮貿易による利益とともに尼子氏の経済基盤となりました。

大永5年(1525年)、配下にあった毛利元就が大内氏に帰属、天文1年(1532年)には三男興久の謀叛が起きるが、依然勢威は衰えませんでした。
後を継いだ孫の晴久が毛利元就を攻めて大敗北、同年に経久は没しますが、経久の死すると尼子氏は毛利元就の勢力拡大により急速に衰退してしまいます。

※画像はイメージです。

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