大言壮語が似合う?戦国最後の武将「後藤又兵衛」

  • 2021-04-01
  • 2021-03-28
  • 戦史
  • 16view
  • 0件

自分の主人は自分で選ぶ・・・
戦国乱世の荒々しい気風から永年仕えた黒田家を出奔した又兵衛、しかし旧主黒田長政の恨みは大きく、行き場は最早、孤立して絶望的な最後を待つだけの大坂豊臣家しか残されていなかった。

Fukuoka City Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

黒田家の家中の武辺衆8人を「黒田八虎」と呼ばれ、後藤又兵衛もむろんその1人で、その武勇は折紙付きです。
一方で又兵衛を有名にしたのは、その大言壮語の癖にもよります。

朝鮮在陣中、黒田勢では黒田三左衛門・母里太兵衛と又兵衛の3人が日替わりで先手をつとめました。
黒田勢が全義館という所に布陣していた時、夜明け前に突然陣中が大騒ぎになります。
長政はすわ敵の朝駆けかと心配したが、一頭の虎が厩(うまや)に入り込んで馬をかみ殺していたのです。

これを見た管和泉守が虎の腰のあたりを斬ったが虎はなお猛々しく、後ろ足の2本立ちで和泉守に襲いかかろうとし、それに誰も助けようとする者がいない・・・とその時、又兵衛が駆けつけて虎の肩先から乳の下まで斬り下げたので、和泉守も窮地を脱して止めを刺した。

もっとも又兵衛の豪勇は、この一部始終を井楼の上から見ていた長政の不興を買い「一手の大将たる身で、猛獣と立ち会いして犬死にしようというのか」と2人を叱責しました。

また朝鮮のある村に入った時、住民が逃散してみな空き家になっていました。
その中に入ると、壺が置いてあり、そこから酒らしきものが漏れ出ていて誰かが「これは毒酒で人を殺す計だ」と言ったので、諸人が恐れて手を出さないでいるところ、又兵衛が「たとえ何にせよ、渇きをしのぐのに十分ある。もし毒ならわしが先に飲んで死ぬまでよ」と言いながら飲み始め、そして「美味言うべからず」と舌打ちしたので諸卒も競って群飲したそうです。

関ヶ原合戦においても、又兵衛の言動は異彩を放っています。
東軍が岐阜城を攻めた時、黒田長政や藤堂高虎らは福島正則の後塵を拝して出遅れ、そのため矛先を変えて長良川の合渡の渡しに迫り、ここは石田三成勢の一部が守っていましたが、折からの雨で川は増水していて、諸将は川を渡るか否か評定しますが、容易に結論が出ません。

その時、高虎がふと目をやると銀の天衝の立物を打った兜を着し黒母衣を付けたひときわ目立つ武者が見えます。その武者は又兵衛でした。
高虎が扇を上げて招いて「この川を渡るべきか、待ったほうが利がある」と尋ねると又兵衛は笑って答えます。
「評定も時によりけりですぞ今日すでに岐阜城の城攻めに遅れ、またこの地でも一戦なければ、果たして内府公に対して面目が立ちますか。川を討死の場所に決めればよろしい。しからずんば男子にはあらず」又兵衛の大言に諸将ももっともだと頷いて渡河を決し、合渡の渡しはたちどころに破れます。

「常山紀談」・・・関ヶ原の決戦では黒田勢は笹尾山に陣取る石田三成勢と正面からぶつかり、又兵衛は三成の家来で豪の者として知られる大橋掃部が十文字槍を引っさげて駆けてきたのと槍合わせして、ついにこれを突き伏せて首級をあげます。
又兵衛の大言壮語といえば、ひとつ面白い逸話があります。

豪快さにかけては当代随一で家康も一目置いた福島正則との一件で、正則と黒田家の因縁、母里太兵衛が大盃の酒を飲み干して正則愛用の日本号の槍を手に入れた黒田節の逸話が有名、又兵衛との一件も、それに優るとも劣らないのです。

正則はかねてから同年代の又兵衛の武勇を買っていましたが、その器量を試そうと一計を案じ、又兵衛を茶湯に招きます。
正則が四方山話をしながら「頭が冷える」と言って袂から頭巾を取り出して被った又兵衛は何たる無礼と内心感じたが、正則が何か思慮があるのだろうと思い直すと、おもむろに肩衣を脱いで腰に置く、今度は正則が不審に思い「これは何の真似か」と質すと又兵衛は「腰が冷えたのでござる」と答えて一本取ります。

その後、料理の膳が出てきて正則は今度こそとばかり、前日長政から来た書状を取り出して「この筆跡の汚さを見よ。そなたの家中にはよき右筆がおらぬらしいな」と又兵衛の鼻先に書状を突きつけます。
これに又兵衛は平然と「わが家中にはよき書き手が数多おり申す。さりながら、よき大将にはよき右筆の書を送り、悪しき大将には悪筆の書を送ってやるのが、わが家中のやり方でござる」・・・これにはさすがの正則もぐうの音がでず「又兵衛こそは天晴れの器量かな」と褒めたそうです。

慶長11年(1606年)又兵衛は長政と不和になり、ついに黒田家を出奔してしまいます。
又兵衛が隣国豊前中津の細川家と親しく交流したのが理由らしいのです。

関ヶ原戦後、豊前中津に細川忠興が入部、前領主長政は国替えで筑前に移りますが、この時に長政は、その年の年貢を徴収して持ち去ります。これに細川方が激怒し以来、両家は険悪、又兵衛が預かる大隈城は細川領に面していて、監視すべきなのに、細川家と懇意にしている又兵衛を長政は許せなかったようです。
又兵衛もまた、仕えるに足る主人を選ぶのはあくまで自分だという、いかにも戦国乱世の荒々しい気風を引きずっていたから、永年仕えた長政と和解できなかったようです。

出奔した又兵衛は一度は池田輝政に仕えますが、長政の恨みは大きく輝政に対して又兵衛の不義を訴え、輝政の立場を考え又兵衛は池田家を去ります。
そして又兵衛は別の仕える先を探しますが、長政の「奉公構」の回状が諸大名に回っていたため又兵衛は大名家から召し抱えられず、浪人のまま大坂にたどり着きます。

奉公構とは、武士や武家奉公人が何らかの罪を犯したとき、以後、武家での奉公が禁じられる処罰で、長政の恣意的な君主権の発動でした。
このため又兵衛は否応なく追い詰められ、武士であろうとする限り、孤立した豊臣家に身を投じるしか方法がなかったのです。

慶長19年(1614年)大坂の陣が勃発します。
大野治長の誘いを受けた又兵衛は大坂城に入城します。

大坂冬の陣では6,000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対し、翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2800ぼとの兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣しました。

しかし徳川方の先鋒部隊は水野勝成を大将とする部隊が、既に国分村まで進出していて、次善策として中間地点の小松山に布陣、寡兵ながらも抜け出てきた奥田忠次を討ち取るなど孤軍奮闘して称賛されます。

後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、又兵衛は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死、享年56でした。
旧主黒田長政による妨害で黒田家を出奔した後、新たな奉公先が、なかなか見つからない中、死に場所を求めるかのように、大野治長の誘いを大坂に入城、そして壮絶な討死を遂げた又兵衛は何を思っていたのでしょうか。

最後はまるで戦国の武将らしく華々しく散る場所を求めて壮絶な討死を遂げたように思えてなりません。

eyecatch source:Fukuoka City Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

最新情報をチェックしよう!