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魔縁とは

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「大魔縁」という言葉をご存知だろうか?
かつてはこの国の第75代天皇でありながら戦に敗れたため、罪人として讃岐に流された「崇徳天皇」の怨霊としての名前である。

では、魔縁とはどういう意味なのか。
仏教用語であり、聖堂を妨げ前項の妨げとなり、生命を奪うこととなる因縁とされ、また魔界の一種である天狗同に堕ちた者どものことをもさす。
つまり、大魔縁とはそんな魔縁どものボス、第天狗のことを言うのである。

今回は今際の際、自ら大魔縁と化しこの国を呪うと宣言したとされる、怨霊・祟り神としての崇徳天皇について解説してゆきたいと思う。

目次

歴代天皇も畏れた御霊の祟り

第121代天皇である孝明天皇が崇徳天皇の御霊を京都に奉還し、鎮魂するための白峯宮建立を決定したのは、幕末の動乱から生じる危機から国家を守るためだったと言われている。
その遺志を受け継ぎ、明治天皇は讃岐から京都へ、正式に崇徳天皇の御霊を迎え入れたのは1868年。
保元の乱に敗れた崇徳天皇が讃岐に流されてから実に700年ぶりのことだった。
この白峯宮は昭和15年に昭和天皇によって白峯神宮と改称されたほか、昭和39年、つまり1964年に執り行われた崇徳天皇800年式年祭に直視が遣わされている。

これらは崇徳天皇が日本史上最も恐れられた御霊であり、百年ごとの式年祭前後には必ず国家レベルでの災いが起きているからであるらしい。

また、京都には白峯神宮以外にも崇徳天皇のための鎮魂施設があり、祇園の中心部には崇徳天皇御廟がある。
崇徳天皇が崩御した後、天皇の寵愛が扱った阿波内侍の手によって崇徳天皇の遺髪が密かに都に持ち帰られ、塚を築いて慰霊を行ったものと伝えられていて、現在でもこの御廟で御廟祭が行われている。

こう言った事実は歴代の天皇たちが真摯に崇徳天皇の御霊と向き合い、恐れ敬ってきたと言えるだろう。より正確に言えば、崇徳天皇の御霊がもたらす祟りに対して、だ。

崇徳天皇の半生

では、このようにまで恐れ敬われる崇徳天皇とはどのような人物だったのだろうか?
また、大魔縁と呼ばれるまでにはどのような経緯があるのだろうか?

ここからは崇徳天皇の人生について解説していきたい。

1119年、崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれる。
藤原璋子は白河法皇の養女として育てられ、その美貌から白河法皇の愛人だったのではないかと噂される人物。

もし、その噂が事実であるならば、白河法皇は彼女を自身の孫(鳥羽天皇)に嫁がせたことになる。
そのため、崇徳天皇は生まれながらにして、本当は鳥羽天皇の子ではなく、母・藤原璋子と祖父にあたる白河法皇の子ではないのかと言うスキャンダルにつきまとわれることになったのだった。
もちろん、真相は不明であり、もし事実だとしても、ただ生まれてきただけの崇徳天皇には何の罪もない。しかし、父である鳥羽天皇は、この噂を真実だとして息子である崇徳天皇を生涯忌み嫌っていたようだ。

1123年、まだ4歳と幼いにもかかわらず、崇徳天皇は天皇の地位に即位することになる。
これには白河上皇の強い意志が働いていたようだ。
白河法皇は孫、崇徳天皇の後見人として天皇家のフィクサーとしてその権力を振るおうとした。
いわゆる院政だ。

これに不満を抱いたのが鳥羽上皇(天皇)だ。
天皇であった頃は、院政を敷く父・白河上皇の操り人形とでも言うべき立場だったが上皇となり、自らも院政を行うつもりだった。
しかし、父・白河法皇が権力の座に居座り続けたため、自分が思うようなことは何もできなかったようなのだ。

そんな鬱屈した日々を送る鳥羽上皇の耳に呼び込んできたのが、先述した「白河法皇、実は崇徳天皇と親子説」だ。
鳥羽上皇からすれば父親の子ども、つまり、腹違いの兄弟を押し付けられていた、と言うことになる。
しかし、1129年に白河法皇が無くなったことで状況は一変する。
鳥羽上皇はこれまでの恨みを晴らすかのように忌まわしい存在である藤原璋子を退ける。
かわりに寵愛するようになった藤原徳子との間に男の子を授かったのである。
それは1139年のことであり、その男の子こそ後に近衛天皇となる体仁親王。
鳥羽天皇の意向により、天皇の地位を譲位することになった崇徳天皇…、否、崇徳上皇は息苦しい日常から現実逃避するかのように文学、和歌の世界に逃避してゆく。

しかし、1155年。転機が訪れる。
近衛天皇が亡くなり、再び皇位継承問題が浮上したのだ。
当時、崇徳上皇には重仁親王という息子はおり、上皇はこの子に天皇の地位を、と望んだわけである。
しかし、崇徳上皇の願いは叶えられることはなかった。
またしても鳥羽上皇の意向により、崇徳上皇にとっては弟である雅仁親王が後白河天皇として即位したのだ。
自分だけではなく、我が子にまで嫌がらせとも言うべき所業を行う鳥羽上皇に対する崇徳上皇の胸のうちは如何ほどだっただろうか?

1156年、鳥羽上皇が亡くなり、朝廷内のパワーバランスが大きく揺さぶられることになる。
鳥羽上皇という大きな後ろ盾を失い、崇徳上皇が勢いを盛り返すことを恐れた後白河天皇の側近である藤原通憲は、「失脚した摂関家の藤原頼長と崇徳上皇が手を組んで良からぬことを企んでいる」という言いがかりつけ、兵を送り込んで頼長の邸宅を奪ってしまう。
驚いた崇徳上皇と頼長も武力でこれに対抗しようとするが、結果として相手の挑発に乗ってしまった形だ。
これが後の世にいう「保元の乱」である。

結果は崇徳上皇・藤原頼長の敗北である。
頼長は討ち死、崇徳上皇は捕らえられ流罪となり讃岐へと流されてしまう。
天皇・上皇が罪人として島流しにあうのは淳仁天皇以来400年ぶりの大事件であった。

血書五部大乗教と怨霊伝説

ここからは讃岐に流された崇徳上皇が怨霊と化すまでを解説していく。

「保元物語」によると崇徳上皇は讃岐の地で軟禁生活を送りながら仏教の教えに心の平安を見出していったようだ。
自らの運命を受け入れた崇徳上皇は、保元の乱で命を落としていった者達を弔いたいとの想いから写経を行い、それを京の寺に納めてもらおうと朝廷に願い出る。

しかし、無情にも後白河天皇は受け取りを拒むのだった。
崇徳天皇の死者への哀悼は偽りであり、写経の中に呪詛をこめたのであろう、と言うのがその口実だった。

純粋な気持ちを踏みにじられた時、人はそれまでの自分ではいられなくなるらしい。

この心無い弟の返答に激怒した崇徳上皇は自らの舌を噛み切り、その血で写本にこう書き込んだと言う。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」
「この経を魔界に回向す」

そっちがその気ならこっちもやってやる、ということだろう。
もしこれが事実なら後白河天皇は、皮肉にも自らの冷たさによって呪いを生み出したことになる。
そして、崇徳上皇は亡くなるまでの間、爪や髪、髭を伸ばし続け、夜叉、もしくは天狗の姿へと変貌を遂げたのだという。

崇徳上皇が讃岐で崩御した後、しばらくの間は誰からも意識されていなかったようだが、それが一変したのは1176年の頃からだ。
建春門院、高松院、六条院、九条院と言った後白河天皇に近しい人々が相次いで亡くなり、翌年には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀など社会を不安定にする重大事件が立て続けに起きている。
以降、貴族社会では崇徳上皇の祟りが囁かれ、日記などの具体的な文献にも現れるようになる。
結果として、精神的に追い詰められた後白河天皇は怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の院号を讃岐院から崇徳院に改めることになったのだった。

総論

以上が大魔縁こと崇徳上皇に関する解説である。
他の伝承のように、具体的な肉体を持つ妖怪や怪物の類がどこそこに現れ、人を喰らったというような話ではない。

ただ崇徳上皇と言う、歴史の敗北者が存在し、並々ならぬ恨みを抱いたまま亡くなったのではないか、という憶測があるのみである。

実際、崇徳上皇の最期が怨嗟に満ちたものであったかはわからない。崇徳上皇は流刑地の讃岐にて、地元の役人の娘との間に一男一女をもうけており、少なくとも孤独のまま憤死したわけではなさそうだ。

しかし、呪いは、呪われる心当たりがある者の精神にこそ作用する。
崇徳上皇を落しいれた者、見捨てた者、助けようとしても助けられなかった者、全員にだ。

かくして怨霊としての崇徳上皇、大魔縁のイメージはこの国を混乱に陥れる愉悦に震える天狗の首魁として確立。
「雨月物語」など近世の文学作品現代においても重要なモチーフとなっただけでなく、菅原道真、平将門と並ぶ日本三大怨霊として現在でも畏れ敬われているのだ。

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