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洒落怖「リアル」考~現代に現れた最恐最悪の祟り神~

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「祟り神」、非常にまがまがしい響きを持つ言葉である。
あなたが日本人であるならば、恐らく一度ぐらいは耳にしたことがあると思う。

日本を代表する劇場版アニメーションの一つでもある、宮崎駿監督「もののけ姫」でも非常に重要なキーワードとして登場している。劇中に登場する巨大な獣の姿をした神々が人間と接触し、争い、怒りに飲まれたことで、まるで疫病のように浸食され、怪物=祟り神と化す様は多くの人に衝撃を与えただろう。

祟り神とはその名の通り、特定の個人や共同体、場合によっては日本全体に疫病や自然災害と言った災いをもたらす超常の存在である。
いわゆる「荒ぶる御霊」であり、怨霊であり、畏怖され忌避すべきものとされるが、それだけではない。真心を込めて手厚く祀り上げれば、個人や共同体の強烈な味方となり、信仰を捧げることにより、恩恵を授けてくれる守護神へと昇華される存在でもあるのだ。
つまり、全ては人間たちの行動次第ということになり、こういった思想・信仰を御霊信仰と呼ぶ。

長年、京の都でとり行われている祇園御霊会の主祭神、祇園神、牛頭天王。
素戔嗚尊によって退治された八岐大蛇の体内から取り出された神剣・天叢雲剣はこうした祟り神の代表格とされている。また、菅原道真・平将門・崇徳天皇と言った日本の三大怨霊もまた人々に畏れられ続けてきた霊=高次元の存在であり、やはり祟り神として祀られているのである。
こうした信仰、そして祟り神は我々日本人にとって、忘れ去られた昔話などではない。
名を変え姿を変え、そして媒体を変えて―確実に一般大衆の文化の中に入り込んでいるのだ。

今回はその一例として、2chオカルト板のスレッド「洒落ほど怖い話を集めてみない?」に投稿されたエピソードの一つである「リアル」を紹介・解説していきたい。

目次

洒落怖「リアル」あらすじ

「リアル」とは、実際に起きた出来事とされているが、その真偽は定かではない。

そのあらすじは、怪異譚の主人公であり、語り部でもある25歳のサラリーマン「俺」。
オカルト好きで心霊スポット巡りを趣味としていた「俺」が、オカルト好きで造詣が深い友人●●から教わった「鏡の前でとあるジェスチャーを行うとナニカが現れる」と言う話を思い出し、軽はずみに実行してしまう事から始まった。
その時から何枚ものお札を張り巡らせて顔を覆い隠し白い死装束を纏め、凄まじい悪臭を放つ異形の「お札の霊」につきまとわれ続けることになる。

「俺」はオカルト好きの友人●●に相談が有効な対抗策は無く、毎日のように出現する霊に、精神的にすっかり参ってしまう。仕事を辞めて実家に帰るけれど身体に異変が生じ、高熱にうなされ心身ともに追い詰められていく。

そうこうするうちに友人●●の知り合いが勧める自称霊能者にお祓いを頼むが、お祓い料として法外な大金を要求されるが「お札の霊」は祓うことはできずに、「俺」はますます衰弱してしまう。

次に両親と祖母の代から付き合いがあり、地鎮祭などで世話になっている尼僧のさんの「S先生」を紹介され、「俺」は霊にとってはとり憑くと居心地の良いタイプの人間、「お札の霊」は悪霊ではなく、寂しさゆえに「俺」に憑依し、力が強い為に悪影響を及ぼしているという事が解る。
そして「S先生」が属する宗派の「本山」に「俺」を連れてゆき、しばらくの間、留まって霊を供養することになり、次第に普通の生活を送れるようになるのだが・・・「S先生」が亡くなった知らせが届く。

そこに書かれていたのは「S先生」の衝撃の本音で、「お札の霊」は「S先生」でも恐ろしくて手に負えない。
「本山」での供養の生活もあまり効果がなく、「お札の霊」はゆっくりと時間をかけて苦しめて決して終りがなく、苦しんでる姿を見て、ニンマリとほくそ笑むものであるというのだ。

手紙を読み終え、二年間かかっても何も解決していない事を知り、結局、「俺」が助からないことは「S先生」には最初から解っていてたからこそ、『あまりにも辛かったら、仏様に身を委ねなさい』と伝えてきたのではないかと絶望する。

「何かに取り憑かれたり狙われたり付きまとわれたりしたら、マジで洒落にならんことを改めて言っておく。最後まで、誰かが終ったって言ったとしても、気を抜いちゃ駄目だ」と結論付けたのだ。

しかし、これで話は終わらなかった。
更に衝撃の告白が続き、ここまで恐怖譚を紡いできた語り部は「俺」ではない。
「俺は●●だよ。今さら悔やんでも悔やみきれない。」と絶望に満ちた言葉で幕を閉じる。

以上が洒落怖のあらすじとなる。

概要として纏めただけなので、本筋と関係がない描写や演出などは省いたのだが、今作の真の主人公とも言うべき、「御札の霊」の恐ろしさや陰湿さは解って頂けるとおもう。
もし詳しく知りたい方は「まとめサイト」などを参照してみるとよい。

作中、霊障に苦しめられる「俺」はここまでされるほど悪いことをしたのか、と自分の運命を嘆くシーンがあるが、そう言った理不尽こそが怨霊、すなわち「祟り神」が「祟り神」である理由だといえよう。

結局、我々、ボンクラな人間にはあちら側の住人の事情や心情には理解も出来なければ共感もできないのである。であれば、最初から余計なちょっかいをかけない方が賢明であると言うのが今作のメッセージであると考えて間違いはなさそうだ。
そう、正に『さわらぬ神に祟りなし』なのだ。

「吉備津の釜」と「八尺様」

では、ここからは「リアル」と酷似、もしくは「祟り神の脅威」という同じテーマを取り扱っている作品を二本ほど、紹介・解説してゆきたい。

吉備津の釜

まず、一本目は上田秋成作「雨月物語」の一編「吉備津の釜」である。その粗筋は以下の通りだ。

井沢正太夫という人物には、正太郎と言う息子がいたがとんでもない色魔であり、父親の言うことも聞かず、毎日のように女遊びを繰り返していた。
思い悩んだ太夫は、正太郎も嫁でも貰えば落ち着いて身を固めるのではないかと一縷の望みをかけて、吉備津神社の神主、香央造酒の娘、磯良との縁組をまとめようとする。
しかし、香央が娘・磯良の幸せを祈願するため「御釜祓い」を行ったところ、釜は音を立てず、この婚姻は凶とでたのだった。香央がこれを妻に相談したところ、先方も娘も非常に乗り気でいるのだから、こんな不吉なことは公表するべきではありません、と断固反対されてしまう。そして、そのまま縁組は進められたのだった。

井沢家に嫁いできた磯良は非の打ち所もない嫁となり、遊び人の正太郎も最初のうちは磯良のことをよく思っていたが悪い癖はすぐに再燃。お袖と言う名の遊女を愛人にし、何日も家に帰らない日々が続いた。
これにはさすがの井沢正太夫も激怒し、正太郎を屋敷の一室に監禁してしまう。夫を不憫に思った磯良はかいがいしく正太郎の世話を焼く。しかし、正太郎はそんな妻を騙して金を奪い、お袖とともに蓄電してしまう。
あまりの仕打ちに大きなショックを受けた磯良は寝込んでしまい、日に日に衰弱していく。

一方、正太郎はお袖とともにお袖の親戚、彦六の世話になり、その隣家で仲睦まじく暮らしていたが、ある日、お袖が憑き物にでも憑かれたかのように発狂。正太郎の看病も空しく、七日後、お袖は帰らぬ人となってしまう。
それからしばらくの間、正太郎は夕方になるとお袖の墓参りをするという生活を送っていたが、ある日、そこで見知らぬ女と出会う。女は自らをとある奥方に仕えており、美人で病弱な主人に代わって墓参りをしているのだと語る。

美人と聞き、その奥方に興味を覚えた正太郎は女に頼み込み、親しいものを亡くした人間同士、哀しみを分かち合いたい、と屋敷まで案内させる。しかし、そこで待ち構えていたのは故郷に捨ててきたはずの磯良だった。亡者のような姿と化した磯良は恨み言を述べ復讐を宣言する。

気絶した正太郎が次に目を覚ましたのは、墓地の真ん中だった。大変なことになった、と正太郎は彦六に相談し、とある陰陽師に助けを求める。
陰陽師は「これより四十二日の間、物忌をせよ。万が一、その間に一歩でも外に出たら命はないものと覚悟せよ」と告げられる。
正太郎がその通りにすると、毎晩のように外で唸り声をあげ、呪いの言葉を吐く女の声が聞こえた。

恐怖に震えながらも正太郎は何とか正気を保って耐え抜き、最期の四十二日目を迎える。やがて家の窓に明かりが差し込んできたので、夜が明けたと思い込んだ正太郎は隣の家の彦六に声をかけ、喜び勇んで外に飛び出そうとする。
しかし、彦六が同じように家を出ようとして、戸を半分ほど開いた時、正太郎に悲鳴が響く。驚いて外に飛び出た彦六は、実はまだ夜は明けておらず、全ては正太郎を騙すためのまやかしだったと気がつく。彦六が正太郎を探して家の中に飛び込んだが、壁が生々しい血に濡れ、軒に男の男の髪の髻だけが引っ掛かっているだけだった。

彦六は事の顛末を井沢と香央に伝えた。二人とも、果たして神意は正しかったのだ、と嘆き悲しんだという。

…以上が「吉備津の釜」の粗筋である。

こちらの主人公である正太郎のほうが「リアル」の「俺」より嫌悪感を抱かれるキャラクターであることは間違いないだろうが、禁忌を侵した結果として「祟り神」(怨霊)につきまとわれるという意味では全く同じなのである。
「リアル」の「俺」が「S先生」に導かれ「本山」に向かったように、「吉備津の釜」では正太郎が陰陽師の言葉に従い、四十二日間の物忌を行った。
前者の方が長く生き延びたと感じるだろうが、結果から言えば先延ばしにしただけで末路としてはさほど変わらないのである。

リアル

次に紹介するのが「リアル」と並んで現代の祟り神とも言うべき怪異、「八尺様」だ。

語り部は元高校生。十年前、一人で田舎にある祖父母の家に遊びに来ていた語り部は、縁側でくつろいでいた際、どこからともなく「ぽぽ、ぽぽっぽっ、ぽっ…」という奇妙な音を耳にする。
それと共に目の前に立つ二メートルはあるであろう生垣の上を麦わら帽子が移動していくのを目の当たりにする。
生垣の隙間から白いワンピースの大女が歩いているのを見た語り部は、麦わら帽子はその女が被っていたのだと悟る。大女はそのまま姿を消してしまい、あの奇妙な「ぽぽっぽ…」と言う音も聞こえなくなった。

その夜、語り部は大女のことを家族に話す。その途端、祖父母は表情を強張らせた。
祖父はどこかへ電話した後、そのまま外に飛び出してしまい、残った祖母に何が起きているのかと語り部が訪ねると、生垣の向こうに現れた大女は「八尺様」と呼ばれる化け物で、気に入った人間がいると姿を見せつけて魅了し、攫ったり取り殺したりすると説明する。

祖父が帰宅。祖父は現在、村人に協力してもらって語り部が八尺様から逃げきれるよう準備を行っているとし、その間、語り部は一晩、お札と盛り塩で護られた部屋で一晩過ごさなければいけないと告げる。

半信半疑のまま、語り部は祖父の言葉に従い、二階の一室に引きこもることになるがやがて現れた八尺様の姿に脅威が現実のものであると思い知らされることになる。しかも、八尺様は語り部の祖母の声色を真似て「おにぎりを持って来てあげたからここを開けて」などと呼びかけるなど、非常に狡猾で邪悪な側面も見せる。
どうにか翌朝まで持ちこたえた語り部のもとに村の有志たちが車に乗って訪ねてくる。彼らが言うには語り部が助かるためには八尺様に捕まる前に村の外に出なければならない、と言う。

さっそく、祖父と村人達に付き添われ車に乗り込む語り部。その際、何が起ころうと見てはならないと忠告を受ける。

やがて車は動き出すが、途中、エンストでもないのに何か強大な力で動きを止めてしまう。思わず窓の外を向いてしまった語り部が目にしたのは恐ろしい形相で車に縋り付く大女の姿だった。
その後、どうにか車は八尺様を振り切り、語り部は家まで送ってもらうことになるが、命が惜しければ二度とこの村に来てはいけないよ、と苦い表情で祖父は言うのだった。

以上が八尺様の物語である。前出した「リアル」、「吉備津の釜」とは明らかに違う点が三つある。
それは主人公である語り部がなんら禁忌に触れておらず、八尺様は神(怨霊)ではなく、バケモノであると明言されている点である。そして、前出の二作品と違い、語り部が最期まで生き延びる点である。

もっとも語り部は「二度とこの村に来てはいけない」と祖父に戒められており、それを破れば恐らく命はないのだろう。
ある意味において、この八尺様の物語も問題は解決しておらず、やはりハッピーエンドとは程遠い。

唯一の対抗手段――物忌の儀式――

では、ここでは、これまで取り上げてきた三作品全てに描かれた共通の儀式について言及していこう。

それは物忌の儀式である。

「吉備津の釜」のストーリー終盤、怨霊と化した元妻・磯良から主人公・正太郎は自宅に盛り塩をし、お札を張り巡らせて神聖な空間を作り出して己の身を守る。
物語全体におけるクライマックスとも言えるシーンで、唯一、人間が怨霊に対して直接的な抵抗(防御)を見せる重要な場面でもある。

「リアル」では「S先生」が属する「本山」、「八尺様」では「祖父母の家の二階の部屋」というふうに違っているにせよ、普段の生活空間とは違う、聖別された空間であるという意味では同じである。

そもそも、物忌とは

  • 神事に臨むため一定の期間、飲食言行などを慎み沐浴するなどをして心身の穢れを除くこと。
  • 夢見の悪い時や穢れに触れた時、また暦の凶日などに家にこもって身を慎むこと。

と言った謹慎行為を指す。

謹慎と言えば仕事やプライベートなどの不祥事を連想しがちかもしれないが、故意か不可抗力かは別として、禁忌に触れた挙句、「祟り神」に呪われることもまた大きな不祥事といっていいのだろう。

物忌は「祟り神」に対する唯一の抵抗手段だと述べたが、それはもちろん、少年漫画のように人間側も超自然的なパワーで相手を倒すようなものとはまるっきり性質を異にしている。

言ってしまえば、「禁忌に触れるようなことをしてしまい、ごめんなさい。反省しますから助けてください」と神仏に、もしくは自信を狙う「祟り神」自体に許しを請う行為に他ならないのである。

だから当然、許してもらえないケースもある。

主人公が特に悪いことをしていない「八尺様」は身内だけでなく、村人が総出で、そしておそらくは読者も心情的に主人公に「助かって欲しい」と願ったと思われる。

しかし、「吉備津の釜」の主人公・正太郎の場合はどうだろう? 実際のところ、正太郎は42日目に致命的なミスを犯し、血も凍るような最期をとげるわけだが、それまでの正太郎の所業を考えれば、もし生き延びて怨霊・磯良が退散するような展開は誰でもモヤッとしてしまうだろう。

そういう意味では「リアル」がやはり、一番で理不尽で恐ろしい。登場人物の一人、「S先生」は言うまでもなく、主人公の味方である。しかも、「S先生」は優しく親切なだけでなく、宗派のなかでもかなり高い地位につけるほど優秀な人物であるようだ。主人公にとっては救世主、それこそ神や仏のような役回りの人物なのだ。

しかし、だからこそ、そんな慈悲深い救世主でさえも「祟り神」である「お札の霊」に対してできたことと言えば、せいぜい気休めの時間稼ぎに過ぎなかった、と明かされるラストは衝撃的なものとなっている。

手紙の中で「S先生」は「あまりにも辛かったら、仏様に身を委ねなさい。もう辛い事しか無くなってしまった時には、心を決めなさい」と書き綴っているが、この時の心情はいか程のものだっただろう。

ある意味で主人公である語り部よりもその絶望は深かったのかも知れない。

総論

ということで今回は「洒落怖『リアル』考~現代に現れた最恐最悪の祟り神~」と題して考察を行ってきた。

「祟り神」との攻防をテーマにした怪談は今回、例として挙げた作品以外にもさまざまなパターンが存在することから大人気のモチーフであることは間違いないだろう。

時代やテクノロジーの発展に伴い、「祟り神」の方もより恐ろしく、より強大な存在へと進化してゆくに違いない。
願わくば彼らと和解し、「祟り神」ではなく「守護神」になってもらえるよう我々人間も努力を怠らないようにしたいものである。

※画像はイメージです。

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