知られざる豊後の名将の志賀親次

豊後(現大分県)の大友氏はもともと相模国足上郡大友郷に住む武士で、当主が能直のとき源頼朝の寵愛を受け、豊後や筑後(現福岡県の一部)の守護職に任じられます。
その子孫が豊後に土着、勢力を拡大しました。

元亀2年(1571年)大友氏21代の宗麟は、豊後を根拠とし、豊前(現福岡県東部)、肥後(現熊本県)、筑前(現福岡県西部)、筑後日向(現宮崎県)を平定、さらに九州6ヶ月国に加え、四国の伊予半国を領する強大な戦国大名に成り上がります。

天正4年(1576年)、宗麟は嫡男の義統に家督を譲って引退。この義統という人は酒癖の悪さから乱行が目立ち、太守として政務もきちんとできなかった。そのため従属している家臣たちは、義統を侮ります。

そんな中で起こったのが、天正6年(1578年)耳川の合戦でした。
義統は九州南部に勢力を強大化させつつ、薩摩(県鹿児島県)の島津氏に打撃を与えるべく田原親賢を大将として、島津氏の最前線、日向国高城(現宮崎県児湯)を数万の軍勢で囲みます。
だが、城攻めは上手くいかず膠着状態となり、やがて鹿児島から援軍にきた島津義久に大友軍は翻弄され、やむなく撤退を始めますが耳川で島津方の伏兵に急襲、2万人の戦死者を出して大敗北をきっします。

この合戦により、大友義統の権威は失墜、肥前(現長崎県、佐賀県)龍造寺隆信、筑前の秋月種実、肥後の甲斐宗運、合志親為など北九州の大名が次々と大友氏から離反、大友帝国は急速に瓦解していき、さらに本拠地の豊後でも田原親宏が反旗を翻して動揺が始まります。
離反大名の内、特に勢力が大きいのが、大友氏、島津氏、龍造寺氏による鼎立状態でした。

天正8年(1580年)から天正12年(1584年)始めまでは、島津氏と龍造寺氏も互いに対立していたこともあって、九州では三者が奇妙な政治的安定を保っていましたが、天正13年(1584年)3月になると、龍造寺隆信が島津氏との合戦で戦死。
鼎立状態が崩れると、にわかに活気づいた島津氏が大友氏の領国へ侵略を強め、島津氏の領国に境を接する豊後国南部の調略の手を伸ばしてます。
危機的な状況において大友宗麟は、自ら大坂城の豊臣秀吉のもとへ行き、救援を求めるのでした。

この間、島津氏の豊後国南部に対する離間工作は急速に進展、内応した津賀牟礼城(つがむれじょう(現大分県竹田市))の城主・入田義実が中心になり、七大家と呼ばれ南部に盤踞する大友氏から分かれた一門・重臣の切り崩しが行われます。

その中でもキリスト教宣教師が「豊後の諸将の中で最も強大な権力をもつ」と語った北志賀氏の裏切りは大きな痛手で、北志賀氏は大友氏の始祖・能直の八男である能郷から始まる大友一族(三大庶家)、南北朝時代には豊後国直入郡直入郷の代官となり、やがて岡城を拠点にするようになりました。なお、同郡南山城にいる志賀氏は庶家筋で、「南志賀」と呼ばれ北志賀氏と区別されます。 

一門衆の北志賀氏が大友氏に反旗を翻したのには訳があります。
同年、大友義統の命を受けた北志賀氏当主・志賀親守は、島津氏の侵攻を防ぐため、その侵攻ルートと予想される宇目村(現大分県佐伯市)に城を構築して拠点としました。

いざ島津氏が大挙して来襲、そんな噂が頻繁に流れるようなり、これに恐怖した親守は、なんと大友氏に無断で守備を放棄、宇目から逃げ戻ってしまったのです。

そして親守の跡を継いだ嫡男・親孝も、それからまもなく義統との間で悶着を起こし、義統に仕えていた「一の対」という女を親孝が盗み取ってしまったのです。

このため親孝も義統に罰せられ菅迫(すがさこ)という場所に蟄居させられてしまいました。
苦境に陥り滋賀親守・親孝父子は入田義実を通じて島津氏に内応の約束をしてしまったのでしょう。
以後、北志賀氏は入田氏と共に島津方に大友氏の情報を流し、同時に一万田氏、朽綱(たくみ)氏、戸次(べっき)氏、柴田氏など有力な南部衆に働きかけ、寝返りを成功させてしまいました。

こうした状況下の中、頑として誘いに応じない人物が、その名を志賀親次(しがちかつぐ)、島津の大軍が来襲したときも大友氏に忠節を尽くし、戦い抜いた名将です。

親次は親孝の長男で、このとき僅か18才だったが、親孝が蟄居したあと、北志賀氏の家督を相続、親次はまだ12、3才の頃からキリスト教に心を寄せ、やがてキリスト教に入信、ドン・パウロという洗礼名を名乗ります。
だが、キリスト教を毛嫌いしていた祖父の親守は、親次の受洗に猛然と反対、親次を廃嫡しようと企んだといいます。

いずれにせよ親次はキリスト教をめぐって祖父や父親と険悪な関係になり、そうしたことに加え、大友宗麟が熱心なキリシタンだったのに対し、島津氏はキリスト教を固く禁じていて、この事実からも親次の行動に大きな影響を及ぼしたと考えられます。
もし豊後国が島津氏の支配するところになれば、間違いなくキリスト教は崇拝されると親次は考え、己の信仰を守るため、敢然と島津氏に立ち向かうことを決意したのでしょう。

天正13年(1585年)11月、ついに島津氏の大友領内への侵攻が開始、島津義久は島津軍を二手に分け、弟の義弘を肥後から同じく弟の家久を日向から攻め込ませました。大友氏の南部衆が寝返り進軍を手引きしたため、島津軍は大友方の諸城を易々と落とし、家久軍は豊後重岡から宇目を経て、大野郡三重へ進み、大友義統が拠る豊後府内をめざして行きました。

一方、肥後方面から進軍した義弘軍は肥後国野尻から直入郡に入り、豊後国府内への後詰めを防止するため、志賀親次が籠る岡城を包囲、新納忠元(にいろただもと)を先鋒大将として激しく攻め立てます。 一説には、その数は2万を超えたそうです。

親次が拠る岡城は稲葉川と白滝川に挟まれた標高325mにそびえる舌状の溶岩台地にありました。
「志賀太郎親次が籠りたる岡の城と云けるあり、此の岡城、東西と云けるは18町ばかりにして南北に大河をおい、四方ことごとく岩壁峨々として峙ち、松柏森々として道閉じ、苔深く岩滑にして措に所なし」
と「豊薩軍記」に記されているように、簡単に攻め込めない、天然の要害の城であったことが伺えます。

親次の凄さは単にそうした要塞に籠って危機をやり過ごすというものではなく、積極果敢に相手を撃退しようとしたところにあり、島津軍来襲に先立ち、親次は柏原口、大塚口、大戸口など肥後国からの侵入路12ヵ所に家臣を配置、駄原(だばる)城や笹原目(ささはらめ)城、鬼ヶ(おにが)城(すべて現大分県竹田市)など支城と連携をとりながら、奇計やゲリラ戦法により、豊臣秀吉本軍の到来まで島津軍を悩ませ続けました。

たとえば岡城から西に8km地点にある駄原城を守っていた親次重臣・朝倉一玄(あさくらいちげん)は、島津方の坂瀬豊前守が攻め寄せてきたさい、城の建物をことごとく破壊して火を放ち、密かに城兵を率いて脱出、駄原城から火の手が上がるのを見た坂瀬豊前守は「是は定めて手過ち(失火)にて有らん。此騒ぎにいざ乗取らんと勇んで押し寄せ(大友興廃記)」たやすく駄原城を奪取しましたが、この駄原城は、たんに物見のために造られた要害に過ぎず、外からの攻撃にもろい構造だったので、つまり、それを知ったうえでわざと朝倉一玄は城中に坂瀬隊を誘い入れたのです。

こうして親次へ事態を報せ、岡城から1500の応援を得て朝倉一玄は駄原城へ攻め上がったのです。
城中の建物は、すべて焼失、隠れる所はなく、島津方の兵は次々と討たれ、島津方の大将・坂瀬豊前守は、主従八騎で命からがら駄原城から逃げ出し途中、深田に足を取られているところに、追撃してきた後藤大学と後藤市助に追いつかれ、落命してしまいます。

かたや笹原目城は岡城より12km西にあり、城代として阿南惟秀(あなんこれひで)が100名程の小勢で守っていました。
そこに来襲したのは白坂石見守を大将とする600の島津部隊、阿南惟秀は6倍の敵と戦っても勝ち目がないと判断、おとなしく島津方の大将の白坂石見守に降伏して開城した。

このとき阿南惟秀は「このような少人数でこんな城に自分を配置したのは主君志賀親次が自分を見殺しにしようとしたからだ」と白坂石見守に不満を漏らし、巧みに相手を信用させ、ついに白坂石見守から笹原目城搦め手の守備を任されることになったのです。
そこで阿南惟秀は島津方の隙を見て、密かに岡城と連絡を取り、現在の様子を逐一、親次へ伝えました。

親次は阿南惟秀と戦術を入念に打ち合わせた上で、中尾伊豆守、大森弾正を大将として1700で笹原目城へ差し向け、城の大手口に殺到、志賀軍は後藤美作守率いる500、阿南惟秀は白坂石見守に「自分は後藤という男をよく知っているが、戦下手な奴だ。城を出て追っ払ってしまうがよい」とアドバイス、これを聞き白坂石見守が城門を開いて後藤隊へ攻撃すると、あっけなく退却、これに気をよくした城兵がつられて次々と城外へと飛び出し、追撃を始めます。

だが、これは罠で志賀軍は伏兵を置いて待ち伏せていて、これに襲撃され、城兵はバタバタと倒され、このとき搦め手を守っていた阿南惟秀は、島津方に反旗を翻して城中に火を放ち搦め手から志賀軍を引き入れたのです。

最早、勝ち目がないと思った白坂石見守は城を捨てて逃亡を図るが、志賀方の佐藤右京亮に追いつかれ討ち取られてしまいます。
他にも謀略によって親次の部下たちは巧みに島津兵を撃退していったのです。

また親次は義弘陣所にも間者を忍び込ませ、陣屋を何度も放火した撹乱戦法、刺客や伏兵を多数放ち南部一帯に散在する島津方の兵を捕まえて殺害、襲撃したりして島津方を恐怖に陥れたのです。

そしてついに島津義弘は岡城攻略を諦め、他の城へ転進していきましたが、しかし他の大友家臣団はだらしなくあっけなく島津氏に降伏してしまいます。
大友本領豊後国内において島津氏に敢然と抵抗し、気焔を吐き、勇猛果敢に戦ったのは志賀親次だけでした。


ノブ
歴史大好き

※画像はイメージです。

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