島津四兄弟の長兄にして島津宗家当主の島津義久

島津四兄弟の長兄、義久は「名将」と謳われた武将。
島津四兄弟に薫陶を施した祖父忠良が覚束なさの残る嫡男に「大将たるものはしかと腹を据えて、みだりに動じないこと、これ勝利の大本なり」と語ったことは、勇猛さで鳴らした弟たちとは対照的な兄を偲ばせます。

義久が総領として自分に、骨の髄まで身をもって守っていた祖父忠良の五か条にわたる訓戒、それは九州制覇を目指した総大将たる義久の人格を表すものでした。

第一に不動明王と愛染明王の「衆生愛顧の形容」をよくよく見てとるべきこと、いずれも忿怒の相を現す明王、その本質は生きとし生けるものへの愛で、人々に対する真の慈悲を徹底させるには両明王の相に象徴される厳しさ、強さがなければならいことが説かれてています。

第二に、ささやかな過ちでもこれを糺し突き詰めてやれば、それが人々の「護身の符」ついては「良薬」となるといいます。

第三に、こうしたことを放置することは当座は憐憫となっても、やがては皆が身を滅ぼす禍根となるといっています。

第四に、国家には国家における自分の身命を軽んじて世のことを重んじること、私を捨てて誤りを改めること、そのためには内では腹を立てていなくとも怒り、逆に怒りたいときでも堪えることだと説き、さらに「聖人の言葉をも恐れ、理法に心底を任され候は、すなわち天道神慮」に通じるものだ、といっています。

第五に、「自分の内においてはやもめ暮らしの孤独の哀れに思いをいたす心づもりをひそかに行じて、かりそめにも他人を損なったり傷つけたりはしまいという持戒を奥にひめて、自分の外においては罰則を強め、鉄拳制裁もなすべきでこれが真の慈悲である」と、禅門に「熏習」という言葉あり、物に香が移りしむように、師匠の考えや行い、態度や物腰や癖などが弟子に移りしむ、ということに特に用いられる言葉、祖父忠良と孫義久の間もそんな関係だったのでしょう。

こうして深謀遠慮を旨とした重厚な祖父忠良の人物像を、彷彿させる人間になったもと想像します。
義久に「名将」イメージが伴うのも、そのあたりに理由があのではないでしょうか。

こんな話があります。
徳川家康が伏見の邸に歴々を招き功名を求めたことがあります。

「さて龍伯(義久の薙髪後の号)老は」ということになり、義久は辞退したけれども、強く家康に促されたので遂にこういいます。
「自分には自身を砕いた働きは何一つない。大友や龍造寺、伊東を相手の合戦なども、ただ出陣したというだけで全ては弟の義弘、歳久、家久、それから図書頭忠長(義久・義弘の老中で宮之城島津氏の祖)右馬頭征久(佐土原島津氏の祖)新納忠元(義久の奏者)らの一族家臣どもを遣わせて合戦したに過ぎないのであり、たまたまそれが勝ちをおさめただけのこと、自分の働きというものは何一もござらぬ」
これを聞いて家康が深く頷きながら言ったそうです。

「自らを手を砕くことなく勝利を得ることこそ右大将頼朝公に並ぶ誠の大将の道。龍伯殿は、さてさてうるわしき大将であることよのう」
「薩藩旧伝集」に書かれているこの話の真否はともかく、九州制覇に伝えられる大戦で義久は、前線に出て働くということはなく、かの龍造寺との沖田畷の戦いでも、後方にあって軍を督励するのに終始しています。

「自ら手を砕いての働きはない」と、義久が事実いったのだとしたら、それは総大将としての役割を全うすることに徹したと受けとるべきで、一方、例えば耳川の合戦におけるその作戦は、家康をして「おそろしき謀事なり」といわしめ、「名将、多言を用いず人をして弁ぜしむ」そういう大将が、義久であったのでしょう。

名将義久は、日向根城坂の戦いで羽柴秀長(秀吉の弟)に敗れ降服、島津氏は豊臣政権に服属しますが、名将義久は、それから三州の所領安堵のため為政者として手腕を問われることになり、豊臣政権から要求は過酷で無理難題のことばかり、さすがの義久も心身をすりへらしますが、その対応に大きな瑕は認めらません。

関ヶ原の役で義弘が西軍に参じた後の戦後処理で、旧西軍大名で島津氏一家のみが領地を安堵されたのも、義久のねばり強い折衝のたまもの、国内においては忠良・貴久連判の十か条の掟を治政安民の道として徹底させた器量人、79歳で没しますが、弟の義弘は終始兄の義久と行動、考えを同じくしたのではありませんが、「予、かたじけなくも義久公の舎弟なり」として義久を敬うことを終生変えませんでした。

eyecatch source:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons

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