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昭和天皇物語を読んだ

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平成の時代が30年で終わった、ちょうど100年前を振り返ると、その時間の長さと歴史の変遷、密度の濃さを思い知らされる気がします。

この作品は、昭和天皇・裕仁の、迪宮(みちのみや)と呼ばれた幼少期からその生活と成長を軸に、周囲の大人たちや政治情勢などを描いて現在三巻まで出版、その中で1921年の初めての欧米への外遊までを描いています。

彼の成育歴に於いて、軍人という存在は大きな意味を持っていました。
なぜなら、当時の皇族の男子は皆『帝国軍人』としての責務を担っており、これは欧米の貴族・王族のノブレスオブリージュという思想に基づくものだと思われますが、国が危機に陥ったら真っ先にその前線へ出ていく義務を負っていたのです。
それ故に、教育係として付いたのが乃木希典であり、幼い日々を過ごしていた迪宮の世話をしていた足立たかは、後に総理大臣にもなった鈴木貫太郎(帝国海軍で要職を歴任し、侍従長も務め、226事件で被弾した後に終戦の処理に当たった人物)の妻になった女性として知られており、常にそうした空気の中で生きてきていたのです。

そしてまだ、この頃は明治維新から半世紀、明治の元勲が生き残っており、薩長の権力闘争の遺恨が政治の表舞台にも影響するような時代でした。
それが思わぬ形で、裕仁の人生に波紋をなげかけることになったのです。

皇室を取り巻くもろもろの事情は、現代とはずいぶんと異なり、東宮(皇太子)として立太子礼、陸海軍大尉に昇任したのが15歳の時。
そして17歳の時に久邇宮家の良子(ながこ)女王との婚約内定が決まりました。

その内定のプロセスについても、厳しい条件の中で候補が上がる中で、裕仁の母である貞明皇后が自身で見極めた少女が良子女王だったのです。
引き合わされた二人の間には淡い感情が芽生え、その瑞々しい二人の描写は今まで描かれたことのないものだったと思いましたが、そののちに大きな問題が取りざたされることになりました。

目次

曰く

良子女王の母方の出自に遺伝子上の問題がある、というのです。
学習院に於いて軍医が検査を行ったところ、良子王女の兄弟に色弱の傾向が発見されたのでした。
1909年に、帝国陸軍は色弱の者を将校に採用できないという規則を打ち立てていたのです。

当時、皇太子をはじめとして皇族の男子は軍役を担う義務を負っていました。
その結果を知った元勲・山縣有朋は『天皇の皇子が大元帥になれないとは!?』と嘆くのですが。
彼はその結果をもう一つの視点から見ていたのでした。

久邇宮家の俔子(ちかこ)妃は薩摩の島津家の出身です。
山縣は長州の出身であり、そこには半世紀にもわたる薩長の派閥争いという微妙な亀裂が残っていたのでした。

この流れは後に『宮中某重大事件』として語り継がれているものでしたが。
その結末を、裕仁を気遣う貞明皇后を中心に様々な人を交錯させて描いています。

裕仁は、権謀術数を張り巡らせていく老獪な山縣を前にきっぱりと言います。
『良子でよい』___と。
そこに至るまでの母・貞明皇后の苦悩や、母と息子、そして大正天皇との夫婦のやり取りは今までにまず描写されたものを読んだことも見たこともなく。
国を思いやり、そして家族として互いを思いやる、とても好ましいものであったのです。

ここで心配されている色弱の遺伝子について、ですが。
軍人としての最高位、大元帥という地位に就いた天皇は裕仁が最後であった、というのも運命的なものを感じてしまいますね。

さて、ようやく婚約が決まり、ほっとした貞明皇后でしたが、大正天皇の体調は思わしくなく、しかし、この時期が最後のチャンスであるとして、首相の原敬は裕仁に外遊を強く勧めるのでした。
当時、海外の国々を経験できるのは外交官や学者(留学生)、海軍の軍人くらいなものでした。
しかし、これからの日本を統べる身としては、欧米の文化や進んだ産業などを見ておくことが必須であろうということで、その外遊を強く進言していたのです。
躊躇う皇后に、大正天皇は『自分の時には父(明治天皇)の大反対で叶わなかった。洋行は早いほど良い。私の夢を叶えてもらいたい』と背中を押し、裕仁は1921年(大正10年)春、横浜港から旅立つのでした。

お召し艦『香取』の艦上の日々は、裕仁の世界を激変させてくれていました。
今では考えられないことですが、彼はその時まで、西洋のテーブルマナーを知らなかったのです。
ステーキを箸で食べようとする裕仁に驚いた海軍の軍人らが、英国に到着するまでの間にナイフやフォークの使い方を徹底的に教え込んだ、という話は有名ですが、そうして奮闘する日々は穏やかで、ほほえましいものでした。
当時彼は19歳。
その身分からも『遊びたい盛り』というものがなかっただろう彼が、心の底からのびのびと過ごしている様子は、後に『人生で最も楽しかった』とこの旅を評しているのが良く解るものです。

その旅の中で、国内でも『皇族初』という沖縄への上陸を経て、香港へと進んだ『香取』ですが、その情勢と治安の悪さから、軍人たちは上陸を回避するように、と進言するのです。
しかし、だからと言って何もせずに通り過ぎるのでは、外遊の意味がない、という者たちもいました。
彼らが企てたのは、裕仁の替え玉を仕立てて、その隙に彼に香港の市街を自由に見せよう、という“冒険”でした。
…そして辿り着いたビクトリアピークからの眺めは中国の中に英国が作り上げた素晴らしい都市だったのです。

裕仁がそんな時間を楽しんでいる頃、東京では一大事が起きていました。
首相の原敬が暴漢に襲われ、絶命したのです。

みどころ

大正時代は、天皇の体調のこともあり、皇室の情報があまり表に出てこなかったように思えますが、この作品では半藤一利さんがこれまでに研究された多くの記録などから、裕仁やその両親である大正天皇夫妻の姿をつぶさに描いています。
貞明皇后は『ワンピースをよくお召しになる』と言われていたようですが、明治時代のローブデコルテなどに代表されるドレスではなく、もっと身軽に、日常的に洋服をお召しになっている、その姿は新しい時代の女性皇族の在り方を率先して見せているようにも感じられます。

それは、ベッドから起き上がることが難しくなるほどに体が弱っていった夫の代わりに皇室を取り仕切っている女丈夫としての矜持であったのか、とも思うのですが、実はとても濃やかで、そして優しい母親だったのでしょう。
手元で育てることができなかった息子たちに対しても、心を砕き、そして一家を束ねていく家刀自として、気丈でなければ務まらなかった、皇后とは、そういう責務を負った立場だったのだと痛感させられます。
裕仁の幼い日々から、国際情勢が激変する時代の中で試行錯誤される“新時代の教育制度”、その中で身を律していく若い少年~青年期の裕仁の姿、その瑞々しい表情が浮かび上がるかのような感覚にもとらわれるのです。

半藤さんの作品というと二度の実写化が叶った『日本のいちばん長い日』などもあり、その綿密な取材に基づいた物語が、執念ともいうべき労力をもって見事に映像に納められていました。
二本目の2015年版、原田眞人作品で昭和天皇を演じた本木雅弘さんの演技は素晴らしいものでした。
この『昭和天皇物語』を読むと、彼の少年時代、そして青年期をいつか映像作品で観てみたい、と思うのです。

(C) 昭和天皇物語 漫画:能條 純一 / 原作:半藤 一利 / 脚本:永福 一成 小学館

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