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東郷平八郎と山本五十六とチェスター・ニミッツ・・・三笠をめぐる意外な関係

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東郷平八郎と山本五十六とチェスター・ニミッツ、三人の提督には、あまり知られていない意外な関係がありました。

目次

山本は東郷の部下だった

東郷平八郎が司令長官として指揮をとった連合艦隊の、第1艦隊・第1戦隊に所属する装甲巡洋艦・日進は当時の最新鋭艦で、日本海海戦でも活躍しました。

この艦に若き日の山本五十六が少尉候補生として配属され、日本海海戦にも従軍していています。
彼はこの海戦での戦傷で左手人差し指と中指を失くしました。
つまり山本は東郷の配下で戦っていたのです。

この時期、山本と同じ少尉候補生のアメリカ人がいました。
それは後の米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツです。

彼は米海軍戦艦オハイオの乗員の一人として、日本海海戦後の連合艦隊凱旋園遊会に出席していました。
世界の戦史上でも稀に見る完勝を成し遂げた、アドミラル・トーゴ―を尊敬していた若き士官ニミッツは、この時に東郷と話をし握手をしています。

「英国仕込みのアドミラル・トーゴーの英語は上手だった」

とその時の彼の感想が残っています。

それから36年後、山本とニミッツの二人は艦隊司令長官として、国家の興廃を賭けた戦いを繰り広げることになります。

太平洋戦争後の戦艦・三笠

日露戦争後、三笠は事故による爆沈そして修復、また第1次大戦への参加を経て、廃艦解体が決まりました。
しかし日本海海戦の立役者とも言える、元連合艦隊旗艦の保存要求が各地から上がり、大正15年に記念艦となりました。

昭和20年の敗戦後は、ソ連からの強硬な解体要求があり、保存を望む日本との妥協策として、米海軍司令部は、艦橋や大砲など上部構造物撤去の上、保存使用を認めました。

ところが三笠の使用委託を受けた民間企業は、撤去した構造物を勝手に売却し、船体をダンスホールや水族館などの遊行施設に改造してしまいました。

ニミッツと三笠

昭和20年8月の戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式に、ニミッツはマッカーサーと共臨んでいます。

その2日前に彼はわざわざ時間を割いて三笠記念艦を訪れました。
そして軍艦の体を成さないほど荒廃した三笠を見たニミッツは、

「東郷元帥を尊敬する者の1人として、 昔から有名なこの軍艦がこれ以上荒らされるべきでないと思い、 私は米海兵隊にみ命じて歩哨を立て」(ニミッツ記)

それ以上の荒廃を防ごうとしました。

彼はまた三笠を東郷提督の記念艦として再整備されることを望む、と文芸春秋誌上で述べ、そのための資金を提供し、米海軍の援助を引き出すなど尽力しました。

その後、三笠記念艦の開艦式に出席した、米海軍代表の持つニミッツの肖像写真には、「東郷元帥の大いなる尊敬者にして、弟子のミニッツ」と書かれていました。

歴史大好きジイサンです。
歴史上有名な人物たちの、意外な関係にはいつも呻ってしまいます。

参考:東郷平八郎 真木陽三 著

 

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