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八つ墓村の元ネタ!津山三十人殺しにみる都井睦雄の戦争

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岡山県津山市の山あいにKという集落がある。この小さな山里が『八つ墓村』や『丑三つの村』のモチーフとなった津山事件の舞台だ。「昭和十三年五月二十一日」と刻まれた多くの墓石は、事件の凄惨さを今も静かに伝えている。
長い間、単独犯による大量殺人世界一の不名誉な記録を保持した都井睦雄。秀才は、なぜ夜叉になったのか。

目次

皆さま方よ。今に見ておれでございますよ

■都井 睦雄
Unknown author / Public domain

事件は解決したのに、真相が闇に葬られてしまう殺人事件がある。犯人を含む当事者が全滅するケースもこのパターンになりやすい。津山事件では生存者はいたものの、戦後GHQが極秘資料を持ち去ったことが拍車をかけた。

津山事件、俗にいう津山30人殺しは1938年5月21日未明に岡山県の山村で起きた大量殺人事件。人口111人の集落で、その3分の1近くが一人の青年に惨殺されるという未曽有の惨劇だった。

スプリ―キラー・都井睦雄(といむつお/通称・睦やん)は21歳。黒の詰襟に身を包み、懐中電灯を鬼の角のように頭にくくりつけて、日本刀、匕首(あいくち)、猛獣用の猟銃で武装した睦やんは、寝静まった家々に押し入り「アタタタター!」と住人を殺害。明け方近く、集落をのぞむ峠の頂で自決した。

無差別殺人と位置づけられることもあるが、そうではない。相手は誰でもよいという殺意ではなかった。犯行の流れ、犠牲者の多さ、殺傷力の高い凶器による死体損壊の凄まじさが皆殺しのイメージを与えるだけだ。なによりも、自決前に書き残した無念の言葉が標的の存在を物語っている。

「うつべきをうたず うたいでもよいものをうった」

殺害動機は深い怨恨。けれども、そこには時代背景や村社会の暗部が見え隠れする。事件前、村人たちは、「皆さま方よ、今にみておれでごさいますよ……」とつぶやく睦やんを何度か目にしていた。

心の闇

津山事件は閉鎖的コミュニティで孤立した人間が起こした悲劇といえる。睦やんは幼少時に両親を亡くし、祖母(通称・おばやん)に育てられた。都井家は裕福で、秀才だった睦やんは当初は集落の人気者だった。

転落の要因としては、徴兵検査で肺尖カタル(初期の結核)と診断されて丙種合格(事実上の不合格)になったことが指摘される。徴兵検査の結果というのは独身男性の品質保証書と同じだから、いわば非モテの烙印を押されたに等しい。お国のために働けない半人前とみなされたわけだ。不治の病と不合格のダブルパンチ。周囲からの白眼視。同情論が生まれるのもわかる。

けれども、ここで人間は殺人鬼になるかならないかに分かれる。「メンタルに問題がない限り大量殺人はヘタレが起こす」という法則(筆者の)にそって睦やんの人生を遡ると、案の定、滅びの徴候は以前からあった。平たく言えば、住民に距離をおかれるようになったのは自身にも原因があったということだ。

学校卒業後の怠け癖。肋膜炎を患っていたとはいえ、百姓を嫌って働きもせずにブラブラ。昼間は近所の子供たちに紙芝居。日が暮れれば夜這い活動。睦やんの脳内世界には女子供しかいなかった。遺書では女性たちを名指しして恨みごとをつらつらと。
イケてない。睦やん、全然イケてない。

当時Kは「夜這い、ダメ。ゼッタイ。」運動の教化地区に指定されていたため、建前上は自粛モードだったはずだ。空気を読まず、病を押して夜方面にフルスロットルの睦やんは、ちょっとアレな人として浮いた存在だっただろう。こういうタイプは秩序を乱す。
当時のローカルコミュニティには村八分という因習があった。

最大のターゲットにされた人物

睦やんに徹底的にロックオンされた人物。それは人妻のYだった。
Yへの執着はすさまじく、嫁ぎ先にまで夜這いをかけ、これが原因で最初の夫に離縁されたともいわれる。のちに他の集落へ嫁いだが、Kに里帰りするタイミングを見計らって殺戮は決行された。

睦やんの怠け癖の元凶と思われる、過保護おばやんの殺害方法にも注目したい。最初の犠牲者となったおばやんは就寝中に斧で首をはねられた。殺害現場の写真を見る機会があったが、「首が1m先に転がっていた」という村人の証言とは食い違いがある。
生存者の証言と睦やんの遺書の内容に100%の信がおけないところも、事件の真相を見えにくくしている理由だろう。

あとに残す不憫を思い、涙、涙で手にかけたと書き残しているわりには、おばやんの首はそのまま放置。
祖母思いの孫ってウソだろ。本当は憎んでただろ。

成績優秀だった睦やんは教師から上級学校を勧められた過去があった。けれど、進学するには家を出て下宿しなければならなかった。この時、おばやんは応援するどころか、こう言い放ったという。

「わしを一人残す気か!」

結局、そういう祖母だったのだろう。睦やんがこの一件を根にもち続けたとしても不思議ではない。

たった一人の戦争

事件は社会を映す鏡とよくいわれる。遺書には「社会は結核患者に同情すべき」「社会の冷胆さ(原文ママ)」等、「社会」という言葉が並んでいる。確かに、K集落であったとされる結核患者に対する差別的行為は当時の村社会の暗部ではある。しかしこの事件の核心は、恋こがれた相手が最大の標的だったことにつきると思う。

失恋の逆恨み。不治の病による絶望。これらが歪んだ復讐心となって住民に牙をむき、30人を自殺の道連れに死に逃げしたのだとすれば、やりきれない。津山事件は戦前日本の暗部がとかくクローズアップされがちだが、そこには現在の類似事件に共通する病理も横たわっている。

「弱いのにはこりた 今度は強い強い人に生まれてこよう 実際僕も不幸な人生だった」

今度はない。今、強くなろうとしなかったことが睦やんの不幸を決定づけた。

黒の詰襟とゲートルは、兵士になれなかった男の軍服だったのだろうか。綿密に練られた計画による殺戮は軍事行動のようにもみえる。その時、睦やんは自身の戦場で戦っていたのかもしれない。「都井睦雄くん、バンザーイ!」と称えてほしくて。
20㎏の重装備で集落を駆けめぐり、3.5㎞離れた山頂で自決した睦やん。本当に肺結核患者だったのか。
斬殺4名、射殺26名、重軽傷3名。一家全滅3世帯。

結核治療の抗生物質ストレプトマイシンが発見されるのは、わずか5年後のことだった。

※一部の画像はイメージです。

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