厩戸皇子の子にして、天皇後継争いに巻き込まれた皇子であり、次期天皇とまで言われていた人物である。
厩戸皇子とは、いわゆる聖徳太子であり「豊聡耳法大王」や「豊聡耳」・「法主王」という別名を持つかなり優秀で名声があった人物であった。
その子が、注目を浴びないはずもなく、どうして不遇の人生を受けることになったのだろうか。
山背大兄王の出自
父・厩戸皇子は用明天皇の子であり、用明天皇の時代は崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていたという。
後に丁未の変により物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。
これ以後、物部氏は衰退し、蘇我氏の権勢が握る時代となっていた。
厩戸皇子は、当時権力を保持していた母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女を娶り、山背大兄王を産んでいる。
山背大兄王の時代背景
592年、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された。
翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位し推古天皇となる。
推古天皇の治世は日本で仏教の興隆時代、遣隋使が派遣され、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代である。
彼女は厩戸皇子を皇太子とし、厩戸皇子は、数々の寺院を建立し憲法を定めるなど政治的に活躍した。
推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、推古天皇も聖徳太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったと考えられる。
そのような蘇我氏政権の中で、父の背中を見て育ち、「聖徳太子二王子像」にもあるように、政務にも参加していたのだろう。
後に、蘇我氏一族から、天皇に擁立されるくらいであるから、かなり優秀であり期待もされていたのではないだろうか。
その生涯
『日本書紀』皇極紀では、推古天皇の病死後にその後継問題が発生したという。
太子であった父・聖徳太子は、推古天皇よりも早くに死に、山背大兄王が擁立された。
しかし、敏達天皇の直系である田村皇子と皇位継承争いをし、豪族達も両派に割れた。
蘇我蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、舒明天皇として629年に即位する。
実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿は古人大兄皇子の擁立を企てた。
古人大兄皇子は、母が蘇我馬子の娘であり、舒明天皇の嫡子でもあった。
なお、その中継ぎとして皇極天皇を擁立したため、山背大兄王と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
ついに蘇我入鹿が斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。
結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、一族もろとも首をくくり自害したのだ。
聖徳太子の血脈
当時の山背大兄王は、聖徳太子の七光りが強く降りかかっていたはずであり、その地位が揺るがることは無いに等しかったと考えられる。
上宮王家と呼ばれる聖徳太子の一族は、京都の重要拠点である斑鳩を占め、周辺豪族からの尊崇も厚かった。
飛鳥の朝廷で独立した経済力を持っており、領民をも支配していたという。
そのため、朝廷を掌握する蘇我氏や他の皇子の中に、上宮王家が天皇の権力を分散させてしまう者ととらえていた説もある。
その山背大兄王が死に際に言った言葉が残っているのだ。
「わが身ひとつを入鹿に賜う(くれてやる)」
これは、蘇我入鹿に対する呪いの言葉か、はたまた国を想う言葉だったのか。
この飛鳥時代は、この後も乙巳の変が起こり、飛鳥朝最大勢力の蘇我入鹿が殺される事件がある。
その後は、藤原氏が政権を握り、日本を牛耳った。
多くの政変があった時代であったが、近親が殺し合うほどの皇位継承の真相とは、日本を牛耳る権力者の影がチラついている。
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