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細川忠興の逸話がすごい

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最近、また歴史に興味を持ち出しまして、色々なことを再検証しております。
同じことを大人になってから読むと子供の頃に読んだのとは違う印象を持ったり、知らない間に新資料が発見されたり、悪人と言われていたけど、今では再評価されている人もいて、歴史って変わっていくのだなあと思いました。
そういうわけで、今回は細川忠興をご紹介しますね。

戦国武将の細川忠興は、名門武家貴族出身の父細川藤孝(後に幽斎)の嫡男で、のちの熊本藩初代藩主。
忠興は京都生まれで、父が足利義輝、義政に仕えて京都を離れている間は家臣に預けられて育ち、父が織田信長に仕えると、信長の嫡男信忠に仕えるように。

忠興は後には千利休の七哲のひとりとなったり、鎧兜の意匠デザインとかも出来る通人ですが、この人、かなり短気な人だったみたい。
忠興は、天正5年(1577年)3月、15歳のときの信貴山城の戦いが初陣で、信長直筆の感状を受けたそうなんですが、その後、一緒に戦った明智光秀に「降伏してくる者を無闇に殺してはいけない」と諭されたそうで、私の頭の中では、抵抗しない相手をめったやたらと斬り殺す若武者のシーンが再生されてしょうがないです。
翌年だったかに父の友人でもある光秀の娘のたまと結婚、これは信長のお声がかりで、忠興は信長に可愛がられ、生涯にわたって信長を尊敬していたそうです。

■細川忠興像
不明。 / Public domain

それで、美貌のたまに惚れこんじゃったのはいいけど、他の男にとられないかとほぼ監禁状態にしちゃいました。
数年後、たまの父明智光秀が本能寺の変で信長を討ったとき、光秀が細川家に味方になってくれと言ってきたけど断り、謀反人の娘だからと玉を離縁するかと思えばしないで、秀吉の許しが出るまで3年ほど山奥に幽閉したんですね。

そして秀吉が天下をとった後、大坂の屋敷にたまを住まわせるようになったが、秀吉にとられるんじゃないかと忠興はそればっかり気にして、たまを屋敷に閉じ込め外に出さず、家臣には、地震があっても外へ出すなむしろ殺せと、たま専用の特別な部屋(まわりを爆弾で固めた)を作って、万一の時はたまを入れて火をつけよと命じて小田原征伐や朝鮮征伐に行ったそう。

たま夫人がキリシタンの洗礼を受けてガラシアになり、信仰に走ったのも無理ないです。
そして関が原前夜、忠興のたま夫人への執心を知っている石田三成は、真っ先に大坂の細川屋敷へ兵を差し向けて、たま夫人を大坂城へ、せめて隣のたま夫人長男の嫁の実家である前田家の屋敷へ移れと要求。
たま夫人は家族やほとんどの家来を避難させたあと、忠興に言われた通り家来に胸を突かせて屋敷に火を放たせて最期を遂げました(キリシタンは自殺できない)。

その後、忠興は自分が殺せと命令したくせに、たま夫人を手にかけた後自害した留守居役やその遺族にまで怒りを向け、たま夫人が逃がした長男の嫁にも怒り狂い、嫁をかばった長男を廃嫡、自分勝手なDV束縛男って感じですよね。
それに忠興は、たま夫人に見とれたといって、平気で庭師を手討ちにしたりする人。
そして歌仙兼定という名を付けた名刀を持っていて、これがなんとその刀で家臣を36人手討ちにした(ほんとは6人という説も)と、三十六歌仙と呼んだそうです。

忠興は晩年は健康オタクとなり、家康と同じように色々な漢方薬や健康法を仕入れて実践したそうで、84歳まで長生きしましたが、忠興が考案したのは他に越中ふんどし(細川越中守だった)も。
細川忠興、色々な意味で歴史に残る人物であります。

※画像はイメージです。

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