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大和朝廷の日本統一における悲劇と坂上田村麻呂

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陸奥の英雄阿弖流為ならび、母禮と軍人坂上田村麻呂との間の心のふれ合いについて述べてみたいと思います。

目次

坂上忌寸

坂上田村麻呂の姓はいみき(忌寸)であり、桓武天皇の軍事を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めた。坂上忌寸は、中国の後漢霊帝の流れを汲む東漢氏と同族であると称している。

桓武天皇の時代、弥生水田による耕作は東北北部まで拡がっていた。縄文時代、東北地域は縄文文化の先進地域であり、そのことを青森県の三内丸山遺跡が実証していると思う。しかしながら、桓武天皇の時代、大和朝廷による政治的統一は東北には及んでいなかった。

西暦802年、陸奥に派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂の軍と戦っていた大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が降伏を申し出た。ここに大和朝廷は、東北を含めた日本の第一次の統一にたどり着いた。
その後、西暦1062年に、大和朝廷に反旗を翻した陸奥の長であった安部貞任が、大和朝廷が派遣した源頼義軍と出羽の長の清原武則軍の連合軍に敗れ、ここに大和朝廷によって第二次の統一が行われた。

日本統一の大きな節目

大和朝廷による日本統一の大きな節目は、坂上田村麻呂の尽力による奥州平定であると考えられるが、この出来事は異民族の平定という色合いはなく、同じ日本民族であるが大和から遠い地であったため、大和王権の到達が遅れたことによると考えられる。ちなみに岩手県からは多くの首相が出ているし、世界的なスポーツ選手も輩出している。

ところで阿弖流為と母禮がどのような人物であったかは、記録もなく不明である。地域の人々を結集して一時は大和朝廷の大軍を打ち負かしており、勇敢で民思いのリーダーであったと思われる。
このことは実際に二人と戦った坂上田村麻呂が二人のことをどう思ったか、また現在の郷土の人々が、二人をどう思っているかで判断できると思う。

坂上田村麻呂は同じ武人として、降伏してきた阿弖流為と母禮に対し、郷土の人々を守って戦う誇り高い勇敢な戦士であるとの敬意を感じていたふしがある。それは、処刑を求める公家達の意向に反してさえも二人の助命を懸命に朝廷に乞うたことから明らかである。
二人を助命することにより陸奥の人々を懐柔できるからということではないと思う。

京都、清水寺。

著名な京都の清水寺は、事実上、坂上田村麻呂が建立したと言われている。清水寺には、阿弖流為と母禮の慰霊碑が、岩手の郷土の人達によって建立されている。

坂上田村麻呂が阿弖流為と母禮に対する戦に勝ち、それによって阿弖流為と母禮が河内で処刑されることになったにもかかわらず、坂上田村麻呂に縁のある清水寺に、岩手の郷土の人達が阿弖流為と母禮の慰霊碑を建立したのは、岩手の郷土の人達が坂上田村麻呂の心の内を見抜いていたからだと思う。
大和朝廷による日本統一における悲劇の主人公阿弖流為と母禮の魂は、この慰霊碑によって静かに慰められている。

featured image:Katalog, Public domain, via Wikimedia Commons

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