アメリカ軍をパニックに陥れた木村艦隊・・・昭和19(1944)年12月のフィリピン戦線。
日本海軍は10月に行われた史上最大の海戦、レイテ沖海戦で主要艦艇の多くを失い、もはや大規模な作戦が出来る艦隊は消滅していた。そして陸上の戦線はレイテ島よりもさらに北上し、アメリカ軍は翌昭和20(1945)年初頭にはフィリピンの中心地であるルソン島への上陸を企図していた。しかしルソン島での制空権を握るためにはレイテ島の飛行場では距離が遠すぎる。このためアメリカ軍はルソン島上陸の前段階として、すぐ隣にあるミンドロ島に飛行場を建設するために、12月15日一個旅団の戦闘部隊と飛行場建設資材を持ってミンドロ島のサンホセに上陸を開始した。
日本側でもその事は事前に予測していたが、四国のおよそ半分もあるミンドロ島の日本陸軍の兵力はわずかに一個大隊が島内各所に散在しているだけだった。日本軍側はミンドロ島への増援部隊の派遣を検討したが、もはや内地からのシーレーンは破壊され、またルソン島の部隊をミンドロ島に派遣する余裕も無い。
そこで、日本海軍は駆逐艦6隻よりなる第二水雷戦隊に重巡足柄と軽巡大淀をつけて、ミンドロ島のアメリカ軍上陸地点を襲撃、艦砲射撃によって輸送船や陸揚げされた物資を破壊することになったのである。
■ 日本海軍重巡洋艦「足柄」
作戦名は礼号作戦と名付けられ、指揮官はキスカ島撤退作戦を成功させた木村昌福(まさとみ)少将であった。木村少将が率いる6隻の第二水雷戦隊と重巡足柄・軽巡大淀は12月15日のアメリカ軍のサンホセ上陸を受けて、仏印(ベトナム)のカムラン湾に集結、12月24日の朝9時にミンドロ島サンホセを目指してカムラン湾を出撃した。そして艦隊は一旦北東方向に進む欺瞞航路を取り、その後2日間は低気圧の密雲にも助けられ、アメリカ軍にまったく発見されずに26日にはミンドロ島北西海上に達することが出来た。しかし26日午後4時、木村艦隊はミンドロ島の目前でついにアメリカ軍のB24に発見された。この時は発見海域があまりにもミンドロ島の至近距離であり、おまけに発見したB24の偵察員が重巡足柄を大和型戦艦と誤報したため、アメリカ軍はパニックに陥ったと言う。数百キロ離れたレイテ湾には重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦6隻のアメリカ艦隊があったが、直ちに急行しても間に合う距離ではなかった。
ミンドロ島のサンホセ沖には10隻の魚雷艇と逃げ遅れた4隻のリバティー型輸送船があり、陸上には荷揚げしたばかりの膨大な物資がむき出しのまま積み上げられていた。
ただし、サンホセに急造した飛行場にはP38・P47・B25などの100機以上の陸上機がすでに到着しており、日本艦隊襲来の知らせを受けて、各飛行隊は飛べるものからバラバラに日本艦隊を求めて飛び立った。しかし、本格的な整備作業もままならず爆弾を積まずに出撃した者も多かった。
重巡足柄をはじめとする8隻の木村艦隊は、このようにアメリカ軍の魚雷艇と航空機の迎撃をまともに受けながら、サンホセへ突入することになる。
木村少将は日没までにアメリカの攻撃隊に捕捉される事を危惧したが、実際の戦闘が始まった時刻は夜の9時ごろであり、迎撃にやって来たアメリカ軍機は暗闇の中では組織的な攻撃が出来ず、木村艦隊が打ち上げる照明弾に幻惑され、来襲した敵機の数の割には日本艦隊の損害は少なかった。また魚雷艇群も木村艦隊のアウトレンジの砲撃のために追い散らされる格好で艦隊のサンホセへの突入を阻止できず、逆にアメリカ軍機による同士射ちの攻撃でかなりの損害を出した。
■ 日本海軍夕雲型駆逐艦「清霜」
木村艦隊ではこの戦闘で駆逐艦清霜が沈没し、重巡足柄の左舷後部にB25が突っ込み数十人の死傷者を出した。またこの時アメリカ軍機10数機を対空砲火で撃墜している。これはアメリカ軍機が夜間の衝突を避けるためか、わざわざ味方識別灯を点していたので狙い撃ちしやすかったとも言われている。駆逐艦清霜を失って7隻になった艦隊は、やがて木村少将が座乗する旗艦「霞」(朝潮型駆逐艦)を先頭に単縦陣でサンホセ沖に到達。午後11時ごろ湾内の島陰に退避していた4隻のリバティー船に向けて魚雷攻撃をすると共に、主砲による艦砲射撃を開始した。すでにアメリカの大船団の姿はほとんど無く湾内はもぬけの殻であったので、砲撃目標は急造された飛行場であった。この砲撃によってサンホセのアメリカ軍飛行場は使用不能になり、上空に乱舞しているアメリカ軍機は降りる飛行場がないと言う事態に見舞われる。そしてレイテ島の飛行場まで飛ばなくてはならなくなり、多くが燃料切れで搭乗員がパラシュート降下し、機体は墜落して失われた。また、島陰に退避していた4隻のリバティー船の内の1隻を魚雷攻撃によって撃沈した。
いったん飛行場の砲撃を終えた艦隊は反転、今度はサンホセ沖を北上しながら物資の集積場を砲撃した。その付近にはアメリカ軍が散兵線を設けており多数のアメリカ陸軍の兵が砲弾の雨に曝されたが人的被害は少なかったと言う。しかしこの砲撃によって陸揚げされた膨大な物資や燃料が焼き払われた。
■ 大日本帝国海軍 朝潮型駆逐艦 霞(かすみ)
木村艦隊の発射弾数は、重巡足柄226発、軽巡大淀100発、駆逐艦霞91発、朝霜58発。他の三隻の駆逐艦の発射弾数は不明である。砲撃を終えた木村艦隊は悠々とサンホセ沖合を離れて北上、指揮官の木村少将が座乗する駆逐艦「霞」は、沈没した「清霜」の生存者の捜索のため沈没海域に留まり、清霜の艦長はじめ258人の乗員を救助して戦場を去って行った。
アメリカ軍の方では、この砲撃の後に必ず日本軍の逆上陸作戦が行なわれるものと信じ込み、消火作業も十分に行わず翌朝まで戦闘態勢で待機していたと言う。
まさに砲撃の後が本番だと待ち構えていたアメリカ軍にとっては、拍子抜けのする一夜だったわけである。
そして実際に、砲撃で物資を焼き払っただけではアメリカ軍の侵攻にブレーキをかける事は出来ず、翌昭和20(1945)年1月9日、アメリカ第6軍は予定通りルソン島リンガエン湾に上陸したのである。
参考文献
文芸春秋編 完本太平洋戦争(三)
文庫版航空戦史シリーズ 木俣滋郎著 「なぐり込み艦隊」
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コメント一覧 (1件)
木村提督はやはりツキに恵まれているのですねえ。