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空に呪われた1966年・・・1966年発生5大飛行機事故

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飛行機の死亡事故遭遇確率をご存知だろうか。
アメリカの国家運輸安全委員会 (NTSB) の行った調査によれば、その確率は0.0009%、10万分の1未満であるとされている。
この数字を見る限り、世界中の専門家が「航空機は最も安全な乗り物だ」と声高に叫ぶのにも納得できる。
しかし、確率はあくまで確率にすぎない。
1966年、日本ではこの確率論を打ち砕く死亡飛行機事故が相次いで発生、航空機安全神話が崩れ去った受難の年であった。

目次

1966年2月4日 全日空羽田沖墜落事故

1966年(昭和41年)2月4日17:55、乗客乗員133人を乗せた全日空(ANA)60便・JA8302号機(ボーイング727型機)が羽田空港に向けて北海道を飛び立った。
着陸予定時刻は19:05を予定しており、目的地近く、千葉上空を18:58に通過するまで順調な飛行を続けていた。
18:57に東京ターミナルレーダー管制所がレーダー管制を開始した際にも、レーダーがJA8302の機影を捉えていた。
このレーダー管制が始まった直後、JA8302号機は計器飛行方式 (IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、東京湾上空をショートカットする形での有視界飛行方式 (VFR)による着陸ルートを選択する。
事態が急変したのはここからだった。

JA8302便は管制塔から指定されていたルートを通らずに、羽田空港滑走路に着陸するコースを飛行している。
その旨を18:59に管制塔と交信した直後、19:00、20秒の交信を最後に、JA8302便は突如通信を絶ったのだ。
管制塔やANAからの再三の呼び掛けに対しても応答はなく、目視はもちろんレーダーによる確認でも着陸コースや周辺上空にJA8302号機の機影やライトは発見できなかった。
続々と後続機が着陸する中、JA8302便が着陸する気配はない。
管制はすぐに運輸省・東京航空保安事務所航務課(現・国土交通省東京航空局)に通報。
19:30には緊急救難体制が発令され、運輸省(現・国土交通省)、海上保安庁、防衛庁(現・防衛省)、在日米軍などが合同で捜索を開始した。
捜索開始から間もなく、20:00頃までに東京湾海上で炎や煙を目撃したという通報が各所に相次ぎ、目撃情報のあった一帯を捜索したところ、23:55、捜索機が羽田沖で全日空の標示のある翼の一部を発見。
機体の内張りの一部、乗客の衣類を収容したことから、JA8302の海上墜落が判明した。

日付が変わった0:05、捜索船が海上に浮かぶ遺体を発見。
最初の遺体、2体が収容される。
その後4月14日までに乗客乗員132人の遺体が収容される。
残る1人、最後の乗客の遺体が見つかったのは、8月9日、横須賀の夏島の岸壁に漂着しているところを発見された。
最後の遺体は事故の衝撃によるものか、事故後の漂流によって失われたのかは判明しなかったものの、頭部がなく、着衣から本人と確認されたという。
収容された遺体の検視結果によれば、死因は墜落の衝撃による頸骨骨折、脳や臓器損傷やと溺死によるものが多数を占めた。
乗客乗員133人全員が死亡という、1966年当時における単独事故としては世界最大の墜落事故となってしまった。

事故原因

事故原因の調査は混迷を極めた。
回収された機体残骸の調査や事故機と同型機の飛行実験などは行われたものの、事故当時、多くの日本の飛行機はブラックボックスを搭載しておらず、原因究明の要となる飛行データが得られなかったためである。
事故調査団の会合では、目的地への到着を急ぐあまり高度を下げすぎたとする操縦ミス説や、グランドスポイラーの機構欠陥による誤作動説、第3エンジンの不調および脱落説などが挙げられ、意見が激しく対立。
また、事故調査団の一員であった運航会社であるANAや製造元であるボーイング社双方が互いに原因をなすりつける恰好となったのも、事故原因が定まらなかった遠因とも考えられる。

最終的に機体に決定的な欠陥は見つからず、最も多くの支持を集めたのは、操縦ミス説であったものの、この説すら断定されることはなく、最終報告書は「事故原因は不明」として結ばれた。
なお、事故当時ANAは「東京―札幌間を60分で」と大々的に宣伝していたが、これはIFRでは実現不可能な飛行時間である。
JA8302号機が飛行方式をIFRからVFRに変更した上、管制の指示したルートとは異なるルートを飛行したのも、この広告通りの飛行を試みたのではないかと推察できる。
事故後、ANAはこういった類の広告を出すことを中止した。

1966年3月4日 カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故

ANA機墜落から1カ月後の1966年(昭和41年)3月4日、この日羽田空港周辺は16:00頃から濃霧に覆われていた。
視界不良のため、羽田空港発着の国内線はほぼすべてが欠航。
国際線も羽田以外の空港へのダイバードや出発見合わせを余儀なくされていた。
香港発バンクーバー行きのカナダ太平洋航空(現・エア・カナダ)402便ダグラス DC-843は経由地である羽田空港に向け飛行を続けていたものの、他機と同様に悪天候に阻まれ、空中待機を強いられていた。
同機には乗客62人、乗員10人の合わせて72人が搭乗していた。

402便は19:08、羽田着陸に向け降下を開始したものの、悪天候のため14,000フィート(約4,200m)付近で空中待機していたが、管制より視界が2,400フィート(約720メートル)まで回復したとの通信が入る。
管制からの通信を受けて402便が3,000フィート(約900メートル)まで降下した時、天候は再び悪化。
402便は台北へのダイバードを決定、進路を変更したが再び管制より視界が3,000フィート(約900メートル)ほどまで回復したとの通信と滑走路進入許可が得られたため、着陸空港を再度羽田空港へ変更した。
しかし、この判断が402便運命を狂われせる事になってしまう。

402便が着陸を予定していた滑走路は事故当時、計器着陸装置(着陸進入する飛行機に対して指向性誘導電波を発射し、視界不良時にも安全に滑走路上まで誘導する計器進入システム)が正式運用されていなかった。
そのため402便は地上誘導着陸方式(管制官による方位、高度指示に基づき、乗務員がマニュアル操縦で着陸を行うシステム)で行わなければならなかった。

着陸直前、402便の高度が管制官の指示よりも下がり始めたため、管制官は警告を行ったが、402便はそのまま降下を続けてしまう。
その結果20:15、402便は進入灯を次々に破壊しながら護岸に衝突、機体は胴体から2つに分断され激しく大破、炎上した。
事故直後に空港の消防隊が出動し、決死の消火活動を行ったものの、機体はほぼ全焼。
この事故により乗務員全員と乗客54人、合わせて64人が死亡した。
死者の多くは火災に巻き込まれ犠牲になったとみられ、消火後の滑走路には機体の残骸と犠牲者の無残な遺体が散乱していたという。

事故原因

事故の大きな原因は濃霧による視界不良であった。
無線通信の解析により、402便が管制官の指示高度より低い高度をとったのも、視界不良の中、パイロットが自ら滑走路を視認するためだったことがわかっている。
また、同機が国際便であり乗員がフランス系カナダ人であったため、言語の影響などにより、管制官とうまく意思の疎通が図れていなかった事も明らかになっており、管制官の高度に対する警告も正しく伝わっていなかった可能性があった。
もしも計器着陸装置による着陸が可能であれば、事故を回避できた可能性もあったのかもしれない。

1966年3月5日 英国航空機空中分解事故

英国海外航空 (BOAC)911便は当初、サンフランシスコを出発し、ホノルル、羽田空港を経由して香港に向かうルートで運航予定であった。
しかし、羽田空港到着予定であった1966年(昭和41年)3月4日夕刻の羽田空港付近は濃霧により視界不良だったため、板付飛行場(現・福岡空港)へダイバート。
予定より1日遅れの3月5日12:43に羽田空港に到着した。
その後、当初の予定から約20時間遅れ13:58には乗員11人、乗客113人の合計124人を乗せ、911便は羽田空港から香港に向けて飛び立った。
離陸直前、機長は当初の計画であった羽田空港から伊豆大島経由で香港に向かうIFRによるコースではなく、富士山上空へ直行するVFRを用いたコースに切り替えている。
離陸後、機長から管制塔へ「ごきげんよう (Good day)」という通信が入った。
奇しくもこの言葉は当該機から外部へ向けての最後の言葉となった。

14:15頃、静岡県御殿場市上空付近で飛行機が、主翼の両端あたりから白く長い尾を引きながら飛行する様子が多くの人々に目撃される。
この飛行機こそがまさに今墜落している911便であった。
911便は羽田空港を離陸した14:15頃、静岡県御殿場市上空付近15,000フィート (約4,600 m)を飛行中、突如として強い乱気流に遭遇。
機体の強度をはるかに超える衝撃に、911便の右翼は分断され、エンジンが脱落、機体は空中分解してしまったのだ。
こうなってしまっては同機に為す術はない。
911便は機体の破片や乗客の手荷物、楽しい旅の思い出だったであろうお土産などを地上に撒き散らし、両翼から燃料を吹き出しながら、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に墜落、爆発と共に黒煙を上げ、炎上した。

墜落の瞬間が多くの者に目撃されていたことから、警察、消防が事故発生から間もなく墜落現場に駆けつける。
そこには、ジェット燃料の白い煙と臭いが立ち込める中、バラバラになり燃え盛る機体に折り重なるように力尽きた乗客達の姿があるまさに地獄絵図であった。
結果、乗員乗客124人全てが犠牲となった。

事故調査

911便が空中分解、そして墜落した原因は“山岳波”と呼ばれる特殊な乱気流だった。
事故当時、この山岳波が飛行機の運航に与える影響は小さいと考えられていた。
しかし、事故当日の3月5日は強い季節風が吹いており、普段より強い山岳波が発生していた。
さらに事故後4年の研究を経て“剥離現象”が事故原因であることも発表された。
剥離現象とは、富士山周辺で山の表面近くの気流が地表から剥がれる時に渦を巻き、それが山体から遠くまで続く現象のことだ。

当時は知られていなかった風や気流が原因となってことについては、事故もやむなしかという感もある。
しかし、911便は伊豆大島経由で香港に向かうという計画を自ら破棄し、わざわざ富士山上空へと向かうコースへと変更しており、そもそもこの変更がなければ事故を免れた可能性が高い。
なぜ911便はコースを変更したのか、2つの理由が考えられる。

  1. 前日の天候不順により、飛行計画が大幅に遅れていたため、少しでも遅れを取り戻そうとした。
  2. 乗客に富士山を見せようとした。

911便には日本観光を終えた外国人観光客が多く搭乗していた。
特に②について、搭乗便の遅れの詫びも兼ねて、観光の最後の思い出に日本の象徴である富士山を乗客に見せようというサービス精神が働いた可能性がある。
ただ、乗員も全員が亡くなってしまった今、飛行ルート変更の真意を探ることは難しいだろう。

911便は羽田を離陸する際、前日に着陸失敗事故を起こしたカナダ太平洋航空402便の残骸が横たわるそばの滑走路から飛び立っていった。
無残な姿となった402便を横目に見た時、911便の乗客乗員は何を思っていただろうか。
少なくともこれから自分達が402便と同様の運命を辿るとは思ってもいなかったはずだ。

1966年8月26日 日本航空羽田空港墜落事故

1966年8月26日午後、日本航空(JAL)乗務員の乗員訓練飛行と操縦試験のため、羽田空港の滑走路からJA8030・愛称:銀座号が飛び立とうとしていた。
銀座号は日本国内航空(後の日本エアシステム、2002年に日本航空と経営統合)から日本航空にリース中の機体であった。
14:35、乗務員の試験項目の一つであるワン・エンジン・クリティカル・カット・アウト(離陸時にエンジン1発が故障した想定で離陸続行する操作)中であり、訓練生が操縦を行っていた。
訓練ないし試験の一環で、滑走中にわざと第4エンジンが手動で停止される。

試験の内容的には、このピンチを所定の操作によって切り抜け、機体を離陸させなければならなかった。
しかし、エンジンの停止により離陸直後の機体は急激に片滑りし始めてしまう。
目撃証言によれば、滑走路から右へ逸脱しはじめ、左車輪が折れて滑走路と滑走路の間で左向きになり、左車輪に続いて右車輪も折れてしまった。

車輪が折れた衝撃で銀座号は胴体着陸した上、爆発。
瞬く間に火の手が上がり、乗員が脱出する間もないまま全焼した。
銀座号は訓練中であったため、乗客はいなかったものの、JAL社員4人と運輸省(現・国土交通省)航空局職員1人の5人全員が犠牲となった。

事故原因

銀座号を操縦していたのは試験中の訓練生であり、不慣れや緊張ゆえの操縦ミスが事故の原因である。
しかし、5人が乗っていた機体、JA8030自体にも操縦ミスを誘発しやすいという難点があった。
JA8030―コンベア880-22Mは、アメリカの大手航空機製造会社ジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門が、開発した中型ジェット旅客機だ。
「世界最速」を売り言葉に1960年に運用開始されたが、高燃費、電装系やエンジンにマイナートラブルが多く、失速特性に問題があるとされた上、低速時の操縦性に他機にはない独特の癖があることもあって、導入した航空各社から不満の声があがっていた。
乗りなれない機体であった上、コンベア880 22M操縦の独特さが事故を誘発した可能性が高いのだ。

なお、JALはリースであった銀座号を合わせると、10機のコンベア880 22Mを導入していたものの、10機中4機が事故を引き起こしている。

  1. 1965年 壱岐訓練中、墜落事故、大破・炎上。乗員6人中2人が重傷
  2. 1966年 日本航空羽田空港墜落事故
  3. 1969年 伊丹空港でのオーバーラン事故、乗客2人が負傷
  4. 1969年 アメリカで訓練中墜落、全壊

なお、④は日本航空モーゼスレイク墜落事故と呼ばれ、日本航空羽田空港墜落事故と同様、訓練生によるワン・エンジン・クリティカル・カット・アウト訓練中にほぼ同じ操縦ミスにより起こった事故である。
この事故でも乗員5人中3人が犠牲となっている。
現在では使用されていない型式の飛行機ではあるが、この事故発生件数を見ると、コンベア880自体の安全性に本当に問題がなかったのか疑問を感じざるを得ない。

1966年11月13日 全日空松山沖墜落事故

1966年11月13日大安吉日の日曜日であったこの日、乗客45人、乗員5人、計50人を乗せたANA533便は大阪国際空港から松山空港に向かい飛行していた。
11月13日当日の松山空港付近は霧雨が降り、天候・視界共に不良であった。
このような天候の影響もあり、松山空港を離着陸する便のダイヤが大幅に乱れ、533便が松山空港に着陸する時には空港の運用終了時間20:00(当時)を過ぎていた。
そのため、533便は本来のルートから遠回りして飛行することで、空港側の着陸準備が整うのを待って着陸することになっていた。

20:28、滑走路の用意が整ったため、533便は着陸したものの、滑走路の端から460mの地点に接地してしまう。
当時の松山空港の滑走路は短く1,200mしかなかったため、このまま進入継続するとオーバーランの危険があるとして、着陸復航(着陸のやり直し)のため、同機は再度の上昇を試みた。
しかし、533便は高度230~330フィート(約70~100m)までは上昇したものの、一転降下。
そのまま松山空港沖2.2kmの伊予灘(瀬戸内海)に墜落した。
機体は激しく海面に叩きつけられ、衝撃により大破。
乗客乗員50人全員が犠牲となった。

事故当時、松山の道後温泉は関西在住者の新婚旅行先として非常に人気が高く、533便の乗客の半数以上、24人・12組が同地へ旅行に向かう新婚夫婦や入籍予定のカップルだった。
人生の門出を迎え空へ飛び立ったカップル達やその遺族にとって、まさに悪夢のような結果となってしまったのだ。

事故原因

ANAにとって1966年2回目の墜落事故になってしまったこの事故は、2月に起こった全日空羽田沖墜落事故同様に事故原因が特定されることはなかった。
乗客乗員が全員亡くなった上、ブラックボックスが搭載されていなかったため、原因特定に当たって重要な情報が得られなかったためである。

原因は特定されなかったものの、当時の事故調査の過程で、先にも触れた通り533便の到着時刻が予定より遅れていたこと、当初この便では別の機体が使用される予定であったものの機体繰りがつかず、今回使用されたYS―11という機体に急遽使用機変更となっていたことがわかっている。
これらの事から事故調査委員会は、ただでさえ短い滑走路への着陸を余儀なくされていた上に予定外の出来事が重なったことで、機長が過労やストレスにさらされた状態となり、これが事故を誘発したのではないかと指摘している。

一方、事故調査報告内で機体の故障や不具合については触れられなかったものの、533便の片方のプロペラがエンジン本体からかなり離れた場所で発見されたことから、同機のエンジンの1つが停止またはプロペラが破損・脱落したため、着陸復航時に上昇することができず墜落した可能性を疑う“機体不具合説”も存在していた。
YS―11とは、日本航空機製造株式会社が開発した戦後初の国産旅客機であった。
定期路線での就航は1965年であったが、1964年の東京オリンピックに向けて聖火を日本各地に運んだことで有名になった機体である。
戦前より航空機開発のノウハウを有していた日本にとって、国産旅客機製造は一つの夢でもあった。
また、戦後経済を支える国内産業の柱にしようという思惑もあったであろう。
しかし、もしもYS―11の不具合によって今回の事故が起こったのだとすれば、国産旅客機生産は大きなダメージを負う。
果たして、事故調査は本当に国家の夢や思惑を排除した下で行われたのであろうか。
今となっては誰にもわかり得ないことである。

事故の共通点

1966年は実に多くの飛行機重大事故が起き、大勢の人が犠牲になる惨事を生み出してしまった。
事故原因とされた事案、説はそれぞれだが、5件の事故には共通する点があるように思われる。
それは飛行機の大衆化と大旅客輸送時代が到来する中で、新機体の導入や輸送スピードの追及、乗客へのサービスに腐心しすぎ、最も重要な安全が蔑ろにされている点である。

  1. 天候不良時、ダイバードや欠航の決断が企業の採算や評判より優先されていたか
  2. 限度を超えたスピード追及や過度な定時運行崇拝がなかったか
  3. 機体の安全性能の確認は製造・整備の段階で十分為されたか
  4. 乗客向けサービスが安全な運航よりも優先されていなかったか

全日空羽田沖墜落事故→②、③
カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故→①
英国航空機空中分解事故→②、④
日本航空羽田空港墜落事故→③
全日空松山沖墜落事故→①、③

4点いずれも主たる事故原因とはされていない。
もちろん、飛行機が定刻通り離着陸し、なおかつより速く目的地に到達できれば、乗客にとっても社会の進歩という面からもありがたいことであることは確かだ。
また、多くの人々の空の旅の需要に応えるためには、飛行機の大型化や改良も不可欠である。
しかしどれも飛行の安全により優先されるものではない。
安全を軽視した航空会社や関連する企業そして社会の風潮や風土が1966年の惨事を引き起こしたのではないだろうか。

最後に

世界的な大旅客輸送時代の荒波の中で溺れぬよう、そして時代の先駆けになろうという野心があるのは大変立派なことだ。
しかし、全てにおいて安全に勝るものはない。
それはブラックボックスの搭載が義務化され、飛行機の安全性能や管理体制が1966年から格段に良くなった現代であっても同じことだ。
機体の製造、整備、運航、サービス、そのどれか1つでも安全を軽視するようなことがあれば、空の悪夢は再び私達に襲い掛かるだろう。

※画像はイメージです。

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