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203高地攻防戦が後の戦争にもたらした悲劇

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日露戦争には自国の部隊編成や戦略、戦術の参考にするために、13か国70名を超える観戦武官が戦闘を観に訪れました。
この制度が後の第1次大戦で悲劇をもたらしたのです。

日露戦争の観戦武官には、第1次大戦でガリポリ作戦を指揮したハミルトン英軍中将、タンネンベルクの戦いで参謀となるホフマン独軍大尉、マッカーサー元帥の父マッカーサー少将など名のある武官が数多く選ばれました。
彼らは東洋の小国である日本が、大国ロシアとどのような戦闘を繰り広げるのか、あるいはロシア軍に弱点はあるのか等など各国の思惑によって派遣されていたのです。

中でも彼らの目を引いたのは203高地を中心とする旅順攻防戦です。
当時、東洋でも屈指の規模を誇った永久要塞を日本軍は攻略できるのか?と世界の注目は集まります。

結果、おびただしい損害を出しながらも日本軍は旅順要塞を陥落させます。
基本戦術は、203高地に目標を絞って各砲集中して支援砲撃を行った後、歩兵の突撃によって占領するというものです。
3度の総攻撃を経て、なお落ちなかった要塞を落としたことで乃木希典は世界中から賞賛を集めることになりました。

しかし、この事実が後の大きな悲劇を生むことになります。
観戦武官の報告を受けた各国は、「永久要塞でも適切な支援砲撃と突撃準備射撃の後、歩兵の突撃で陥落させることができる」と受け取ったのです。
つまり、ボカスカ砲撃をして歩兵を突撃させていればどんな防御陣地もいつか落とせるという理屈です。

そして第1次世界大戦は非情なまでの突撃信仰を持つ各国軍部によって、日露戦争とはけた違いの死傷者数を出していくことになります。
事実、前述のハミルトンはガリポリで数十メートル先のトルコ軍陣地に豪州軍を繰り返し突撃させ大損害を出しています。

時期的に兵器の性能が戦術や用兵を上回っていた過渡期とはいえ、あまりに同じ失敗を各国は繰り返してしまいました。
この失敗の一因とも言えるのが、日露戦争での旅順要塞での日本軍の成功だったということは歴史の皮肉と言えるでしょう。

※画像はイメージです。

eyecatch source:日本語: 海軍軍令部English: Imperial Japanese Navy General Staff / Public domain

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