2,4,5-Tを知っていますか?ベトナム戦争枯れ葉剤 日本国内大量保管問題

2,4,5-T、これは2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸という物質の略称である。この2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸はベトナム戦争でアメリカが散布し、後に多くの健康被害をもたらしたことで有名な「枯葉剤」の主原料である。

1975年に戦争が終結して45年以上。
この忌むべき化学兵器の原料がおおよそ半世紀の時を経て、今なお日本の各地に眠っていることをご存じだろうか。
もしかしたら、あなたいる場所のすぐそばにも。

目次

2,4,5-Tとは

通称2,4,5-T、2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸とは、毒物及び劇物取締法における劇物であり、過去、除草剤として使われていた。この化学物質が注目を浴びるきっかけになったのが、ベトナム戦争で使われた枯葉剤だ。
ベトナム戦争で撒かれた枯葉剤は作り方によっていくつか種類があったものの、最もメジャーだったのがこの2,4,5-Tと2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を混合させて作った「エージェント・オレンジ」と呼ばれるものだった。

戦時、アメリカ軍は、ゲリラ戦の舞台となっていた森林の木々を枯らし、南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン達の隠れ家を破壊することと、彼らの農地を破壊、また、その農地で作られて農作物を枯らしてベトコンらの食料線を断つことを目的として、枯葉剤を散布していたとされている。
つまり、一応の名目上、枯葉剤という名前通りの使い方をしていたというわけだ。

しかしご存じの通り、枯葉剤が撒き散らした災厄はこれにとどまらない。
この枯葉剤、生成する過程で四塩化ジベンゾパラジオキシン、通称TCDDというダイオキシン類のなかでもっとも強い毒性を持ち、後に史上最悪の毒物と称される化学物質を副産物として生成していた。

TCDDは強力な発ガン性を持つ。
また、最も有名な影響は流産や奇形児の出産、そして出産異常が増加したことであろう。
枯葉剤が撒かれたことにより、ダイオキシンの被害を受けた人々は外形的障害や遺伝疾患、がんなどの後遺障害に苦しんでいるといわれている。
下半身がつながった状態で生まれた双子、「ベトちゃんドクちゃん」を記憶している人も多いはずだ。

USAF, Public domain, via Wikimedia Commons

臭いものに蓋をする

日本では1964年、2,4,5-Tを除草剤として農薬登録している。
1968年からは林野庁の地方組織である営林署が、雑草の駆除を目的として、日本全国の国有林でこの除草剤を使用し始めた。

しかし、翌1969年頃にはベトナム戦争での枯葉剤による被害が確認され、世界各国で報道され始める。
その報道から、枯葉剤が自分達の撒いている除草剤、2,4,5-Tを主原料としていると知った営林署の職員たちは上層部に対し猛抗議。
自分達が散布している「薬」が実は「毒」であり、撒いた先や散布している自身にどんな影響があるかもわからないのだ。
テレビや新聞で、日夜騒がれる底知れない毒性を考えれば当然のことだろう。

その後、これらの抗議を受けて1971年4月、林野庁は国有林内での除草剤使用中止を決定。
農薬登録も抹消されることとなった。
さて、こうなると問題なのが、今後使われる見込みのなくなった2,4,5-Tをどう処分するかということだ。

少なくとも1970年代の科学技術では無毒化することはできない状況だったという。問題解決のため取られた策はまさに、臭いものに蓋をする。2,4,5-Tをコンクリートで固めて地中深くに埋めてしまうというものだった。

そして、この地中に埋めてしまうという状況は今なお続いている。
2021年現在、2,4,5-Tが埋められているとされている自治体は下記の通りだ。

北海道:遠軽町、音更町、清水町、標茶町、本別町、夕張市/青森県:中泊町/岩手県:岩泉町、久慈市、雫石町、野田村、西和賀町、宮古市/福島県:会津坂下町/群馬県:昭和村、東吾妻町/愛知県:設楽町/岐阜県:下呂市★/広島県:庄原市/愛媛県:宇和島市、久万高原町、松野町/高知県:いの町、大豊町、四万十町、土佐清水市/佐賀県:吉野ヶ里町/熊本県:芦北町、宇土市、熊本市/大分県:別府市/宮崎県:串間市、小林市★、西都市、日之影町、都城市、宮崎市★/鹿児島県:伊佐市★、肝付町、南九州市、屋久島町、湧水町

(自治体名の後ろに★がついている町は、埋設場所が2カ所。ない町は1カ所。都道府県名以下は50音順。)

ご自身の住んでいる場所、職場のある地名が含まれている方はいらっしゃるのではないだろうか?
埋設処理されることになった2,4,5-Tは46カ所で約26tにつくことになったが、その眠りは決して「静かに」とはいかなかった。

目に見えず忍び寄る恐怖

林野庁は当初、2,4,5-Tの処理、管理方法について、「(埋設量を)1カ所あたり300㎏を上限とし、コンクリートの塊にして埋め込む」、「周辺への流出を防ぐ対策を取った上で管理していく」と規定していた。

しかし、46カ所で約26tでは、すでにこの1カ所あたり300㎏の規定を大幅に超えている。場所によっては、規定の2倍以上の2,4,5-Tを埋めていてもおかしくはないのだ。

また、埋設場所の中には、規定を無視してずさんな処理を行った所もある。1980年代、愛媛県と高知県の埋設場所から、2,4,5-Tが漏れ出したことが判明。愛媛県の例に至っては、コンクリートで固めることもせずに埋められていたことが、大学の調査によって明らかになっており、環境基準の100倍を超えるダイオキシンが検出された地点もあったという。

これ以降、公式に2,4,5-Tが漏れ出たという事実は確認されていない。
しかし、1970年代に2,4,5-Tを埋設してからそろそろ50年が経とうとしている。
例え当初の林野庁の規定通り、コンクリートの塊にしていたとしても、コンクリートの細かい材質や置かれた環境などによって悪条件が揃うと、その寿命は50年ほどだと言われている。
また、昨今多発する地震、記録的豪雨、それに伴う地割れや土砂崩れなどによって2,4,5-T埋設場所が被害を受ける可能性も考えられる。

もしも地割れや土砂崩れなどによって、万が一、2,4,5-Tが流出してしまった場合、流出を察知し、それを食い止める手立ては講じられているのか?
また、そのよう災害を前に、その手段をすぐに行使できるのか?
残念ながら今の時点では、恐らくどれも難しい状況だろう。自然災害が頻発する今、負の遺産が動き出す日も近いのかもしない。

2,4,5-Tは本当に除草目的だったのか

とにもかくにも、この都合の悪い物質は地下深くへと埋められる事となった。
しかし、ここで1つ考えたいことがる。
この大量に残された2,4,5-T、本当に除草のみを目的とし、国内に保管されていたものだったのだろうか?

改めてベトナム戦争について振り返ってみよう。
ベトナム戦争は、1955年11月から1975年4月、南北ベトナムの統一を巡って展開された戦争だ。資本主義対社会主義の代理戦争であるとも言われ、アメリカは積極的にこの戦争を主導していた。
20年にも及ぶ戦争の中で、アメリカ軍がベトナムで枯葉剤を散布した「ランチハンド作戦」を決行した期間は、1961年8月から1971年10月とされており、実に約10年、散布された量は1,200万ガロンとも言われている。

当時、この枯葉剤はアメリカ国内だけでなく、複数の他の国で生産、さらにいくつかの国を経由させてアメリカが買い取り、戦地へと送られていた。
この複数の生産国の中に日本が含まれており、枯葉剤の一部を国内で製造している可能性があることが、1969年7月に報道により発覚する。

報道によると、M化学という会社の大牟田にある工場が2,4,5-Tを大量に製造しており、それは枯葉剤製造の一端を担うためではないかというものだった。
なお、この会社は統合や合併を繰り返し、名前が変わっているものの、現在もある財閥系の化学メーカーだ。
第2次世界大戦下においては、毒ガス原料の中間材料を製造したり、軍用機の燃料となる人造石油の製造をしていたことでも知られる会社である。

枯葉剤のもたらす被害

1969年といえば、すでに枯葉剤のもたらす被害が国際社会でも問題になり始めていた時期でもあった。
国内での需要がないはずの2,4,5-Tをなぜ大量に製造しているのか、製造された2,4,5-Tはベトナム戦争で兵器として用いられているのではないか、という質問は国会でも取り上げられものの、当時、それに対して政府から明確な「No」という答弁は得られなかったという。

林野庁が除草剤として2,4,5-Tを扱い始めたのは、1968年。
ベトナム戦争で枯葉剤が散布が中止されたのが、1971年10月。
林野庁で除草剤の使用中止が決定したのが1971年4月、そして同年、農薬登録抹。

あまりに時期が一致しすぎていないか?
戦時の兵器製造について、それが同盟国向けのものであり、国家から注文があったものであれば、当然受注した側の国が知らないはずがない。また、報道によって枯葉剤の危険性が世界に知られる前に、アメリカ軍がこの兵器の本来の目的以上の危険性を察知していた可能性も高い。

ベトナム戦争、そして枯葉剤散布を行ったランチハンド作戦期間中である1965年3月には、実際にダウ・ケミカル(「ナパームB」というナパーム弾の中身や枯葉剤を製造をし、ベトナム戦争を支えたアメリカ企業の1つ)本社で、他の化学系製造企業と共に、ダイオキシン類の毒性に関する秘密会議が開かれたという記録も残っているからだ。

この会議とその内容について「知らない」というほど、アメリカ軍も甘くはないはずだ。
わざわざ複数の国に製造を依頼し流通経路をわかりづらくしていたのも、量が必要という理由からだけではなく、2,4,5-Tの危険性ゆえ、製造過程での暴露リスクや後々に起こるであろう毒性による症状、後遺症に対する賠償請求リスクを分散させたいという意図があったとも考えられる。

負の遺産、2,4,5-T

ベトナム戦争が激化していく中で、膨らむ2,4,5-Tの製造量。
「2,4,5-T製造の目的は枯葉剤製造のためではないか」という日本国民の視線をかわすため、国内での除草剤利用という内需のための製造という名目を作り、後付けで林野庁に納入。

実際の枯葉剤散布が終了する前に、同盟国内では水面下で製造量の調整や受け入れ中止の連絡があったであろうことを考えると、アメリカ軍が枯葉剤の取り扱いを内内で中止すること決めた段階で、日本国内でも使用を中止すること決定。

余ってしまった2,4,5-Tについては、そのまま林野庁に押し付ける形となったという筋書ではないのだろうか?
押し付けられた2,4,5-Tは先に書いた通り、地中に隠してしまい、おしまいというわけだ。

ベトナムでは、今なお多くの人々が枯葉剤による被害に苦しんでいる。
中には、子へ孫へと世代を超えて、その毒性が及ぼす影響とみられる症状がある人もいるという。

そして私達の足元には、実害も、もしかしたらその目的さえも、負の遺産となった2,4,5-Tが今も眠り続けている。

featured image:USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
※一部の画像はイメージです。

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