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佐賀の乱、江藤新平は非業の死?

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江藤新平は大久保利通の好き嫌いで殺された、今も昔も人間関係の絡みは変わらない。

目次

江藤新平とは?

明治になり日本は近代化を急ぐあまり旧士族の生活も一変した。その中で江藤新平は1834年肥前(佐賀県)に生まれ、貧しい中勉学に励み、明治新政府に徴用され、司法卿として諸外国に負けないよう、法律の整備や警察機関を設立を急いだ。
その当時、日本には国として統一された法律がなく、藩ごとに別々な法律という程ではない決まり事があって全く纏まりがない。江藤は裁判所の制度を確立しこれをまとめ、大きな功績となっている。

明治になると、廃藩置県等の改革で旧士族たちは困惑をする。不平不満の火種がくすぶり、その解消の矛先になったのが征韓論である。征韓論とは日本の国防的な観点などから、400年以上続く李氏朝鮮を「朝鮮を武力によって開国させよう」という明治の政策。朝鮮に出兵することにより、旧士族に土地を与えようとする考えから、できるだけ国内での幕末のような内乱を避けたかったのではという考えが想像できる。
しかし大久保や木戸孝允らは、海外視察から帰国した際、日本国内がまとまらないのに海外に進出するのは、もってのほかと彼らの考えを一掃してしまう。

政府内の不平等感

西郷をはじめとする、江藤たちは明治新政府を辞して故郷に帰ってしまう。江藤の中には薩長を中心とした政府内の不平等感が許せなかったのか、彼のまっすぐな不正を許さない性格が災いしたのかもしれない。
大久保もまた江藤の融通のきかない、妥協を知らない態度に業を煮やしていたのであろう。

江藤は佐賀に戻るが旧佐賀藩士の中で、明治政府討伐の頭にされてしまう。所説によれば、江藤自身はその反乱を鎮めるつもりであったが、政府がの大久保は佐賀の乱の情報をつかむやいなや、まだ江藤が合流していないにもかかわらず江藤を首謀者としてしまう。

大久保利通の策略

大久保にしてみればしてやったりで、これを機に江藤を葬りさることを画策する。あえなく新政府軍は鎮圧部隊を送り込んで江藤を高知で逮捕し、佐賀に送検して裁判にかけたのだ。
判事となる人間が大久保の息のかかった人物。江藤は裁判にかけられるが、弁護人もおかない、罪状認否もとらない、江戸時代に逆流する感じの裁判で、反乱罪の罪で打ち首、さらし首にされてしまう。

自分が司法卿として、法律制定に尽力したのにもかかわらず、その適用第一号となってしまう。だが弁明も許されなかったこれを裁判というのに、ふさわしいかはわからないところである。
明治政府側、特に大久保の意図による抹殺という線も濃厚である。

人間関係が悪化すると憎しみが相互に出てしまった結果で、佐賀の乱の江藤の非業の死は、大久保による憎しみの結果とも云えるのではないか?

featured image:Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

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