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死を迎えるまで絶対的な権力を握り続けた独裁者?!ヨシフ・スターリン

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現在、日本においてもまた世界においても独裁者を一人挙げよと問われれば、大多数の人々が第二次世界大戦を引き起こしたドイツのアドルフ・ヒトラーの名を真っ先に口にするのではないだろうか?
しかしアドルフ・ヒトラーが1933年1月にドイツで政権の座に就き、最期はソ連軍の侵攻に晒された首都・ベルリンで1945年4月に自決した事を考えれば、独裁者として君臨したのは僅か12年と思いの他、短い。

それに対し当時のソビエトに君臨したヨシフ・スターリンは、最高指導者のウラジミール・レーニンが死去した1924年から、自らが脳内出血で死去する1953年1月までの30年間以上も権力の座を掌握し続けた。

世界初の共産主義国家として誕生したソビエトの黎明期から頭角を現し、激動の第二次政界大戦では攻め込んできたナチス・ドイツに勝利し、以後は東西の冷戦状態までも演出したのがヨシフ・スターリンである。
スターリンと言えば尊大にして冷徹な独裁者と言う印象が強いが、アドルフ・ヒトラーと言うインパクトの強い存在のおかげで、少しその実像が緩んでいる感もあるので、微力ながら紹介できればと思う。

目次

実は本名ではないスターリンの生い立ち

スターリンは1878年12月、当時ロシア帝国の支配下にあった現ジョージア(当時はグルジア)の西部の都市であるゴリに生まれたグルジア人で、イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリが本名である。
イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリのロシア語読みがヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリであり、良く知られたスターリンと言う名はロシア語で「鋼鉄の人」の意の筆名である。

スターリンは農民階級出身の両親の3男として生を受け、兄達が共に病死した事で事実上の長子として育ち、父親は一時は靴職人として財を成したが後に没落、母親に連れられ1888年に教会に付属した学校に入った。
この時のスターリンには幼くして天然痘を患った痕が顔面に残っていたが学業成績には秀でており、父親の反対を受けつつも1894年には当時の首都であったトビリシ神学校へと進学を果たした。

進学した当初は神学校でも優秀な成績を収めたスターリンだったが、次第に神や宗教への懐疑心が目覚め、且つこの時期にマルクスの「資本論」に触れその思想に傾倒、熱心なマルクス主義者の信奉者となる。
こうした思想的な変遷を経てスターリンは自らを無神論者と公言するようになり、遂に1898年にはトビリシ神学校を退学、同年に気象台の職員となり労働者の立場からストライキ等の活動を実践に移した。
スターリンの社会主義活動の実践は僅か2年後の1901年にはロシア帝国の秘密警察にマークされる程の賛同者を得る事になり、その後は地下に潜って逮捕を逃れ活動を継続、ロシア社会民主労働党のトビリシ委員会委員に収まる。

翌1902年、スターリンは政府当局者によって捕らえられ3年間のシベリアへの流刑となったが、1904年に脱走に成功してトビリシへと舞い戻り、その地でマルクス主義の啓蒙を新聞への記事執筆で続けた。
この頃のロシア社会民主労働党はウラジミール・レーニンが率いるボリシェヴィキ派と、ユーリー・マルトフのメンシェヴィキ派に分かれ対立、後者が数で優勢だったがスターリンは前者を支持していた。

頭角を現したボリシェヴィキでのスターリン

スターリンがその強固な指導力でボリシェヴィキ内で頭角を現し始めたのは1905年頃からであり、当時ロシア帝国の支配下に置かれていた現アゼルバイジャンにおいて同組織内での実力行使部隊を率いた事が大きい。
そこでスターリンはロシア帝国内で頻発していた動乱を利用し、自らが組織した実力行使部隊でロシア帝国の軍や警察を抑えて武装を強化し、商業・鉱業者から巧みに資金を吸い上げる事に才覚を発揮した。

スターリンはボリシェヴィキの活動資金をこうした非合法な実力を伴う行為で強引に推進したが1908年には当局に逮捕され、一旦は逃亡に成功するも1911年にまた逮捕され、3年の流刑を下される事になった。
翌1912年、流刑中だったスターリンはレーニンらによって党の中央委員に選出され、以後世を去るまでその地位に留まり、ロシア社会民主労働党内における絶大な権力を握る大きな契機を迎えた。

その後もスターリンは逮捕と流刑を受け、その間に第一次世界大戦が始まった為に1916年にはロシア帝国からの招集を受けるが、身体検査で兵役には不適格とされたため、戦地に赴く事はなかった。
スターリンはボリシェヴィキ内で変わらず高い地位を得ており、レーニンが1917年に新政府の樹立を宣言するとその中核メンバーとして活動、新政府ソビエトの赤軍を指揮し1919年末での内戦の勝利に貢献した。
こうした赤軍の指揮における勝利への貢献から、1922年にスターリンはレーニンによって党の書記長に推されたが、1924年にはレーニンが死亡、その遺書にはスターリンを書記長から更迭する事が記されていた。

独裁者の地位を確立したスターリン

ロシア社会民主労働党は1918年にはロシア共産党(ボリシェヴィキ)に改称されており、1924年のレーニンの死後、その党書記長の座にあったスターリンは前述したレーニンの遺書の公開から窮地に陥る。
絶対的な党の責任者であったレーニンが、スターリンを指導者の地位に置く事を否定したその遺書の内容は重かったが、スターリンは自ら書記長の辞任を申し出て殊勝に振舞う事でその危機を回避し、地位を守った。

最大の危機を乗り切ったスターリンは党内のライバルであったトロツキーらに対し、それまでの党や彼らが唱えた世界革命を否定、ソビエトのみでも共産主義を追求する一国社会主義を標榜し、自らの権勢を高めた。
それでもスターリンの配下ではセルゲイ・キーロフが人望を背景に台頭するなどしており、1934年12月に起きたキーロフの暗殺はスターリン自身が今後を鑑みて画策したものであるとの見方が一般的である。

スターリンはその後党内の粛清を容易にする新たな法案を定め、1936年夏から1938年秋までの凡そ2年弱の期間で政敵の大粛清を敢行、一説には1930年代にソビエト全土で200万人にも及ぶ犠牲者が生じたとされている。

第二次世界大戦時のソビエトとスターリン

1930年代の大粛清で完全にソビエト国内での独裁者としての地位を揺るぎないものとしたスターリンは、1939年8月に突如としてナチス・ドイツと不可侵条約を結び、第二次世界大戦開始への大きな役割を演じた。
ナチス・ドイツの共産主義への激しい憎悪を知る世界からしてみれば、この独ソ不可侵条約の締結は予想だにしなかった展開だが、ヒトラーとスターリンがポーランドを分割支配する密約の元で手を結んだものだった。

これにより翌9月に先ずナチス・ドイツがポーランドに侵攻を開始しここに第二次世界大戦が勃発、スターリン自身はドイツがイギリス・フランスそしてアメリカと戦って弱体化した後で共産化する事を企図していたと言われている。

第二次世界大戦自体はスターリンが予想していたより早く、1941年6月にナチス・ドイツがソビエトに攻め込んだ事で苦戦を強いられるが、アメリカ等の援助もあり最終的には第二次世界大戦で最大の犠牲者を出しながらも戦勝国となった。
現在でもロシアでは第二次世界大戦の事を大祖国戦争と呼び習わし、侵略者であるナチス・ドイツを撃退した事を誇りとしているが、今のロシア・ウクライナ戦争にその歴史感が利用されている事は言うまでもない。

東西の冷戦構造と日本にとっての災いを生んだスターリン

第二次世界大戦において自国民に2,000万人以上とも言われる世界最大の犠牲を払ったスターリンのソビエトであったが、戦後には東欧諸国に共産主義の政権の発足を促す支援を行い、その支配圏を広げた。
スターリンはかつて自らが党内の権力を掌握する上では一国社会主義と言う理念を掲げたが、第二次世界大戦後後には大元にあった党の世界革命の実践を行った形であり、このあたりは歴史の皮肉さを感じさせる。

ソビエトやスターリンが行った共産主義の拡張とは、直接的な領土の獲得に留まらず、謂わば史上初のイデオロギーを他国に浸透させて親ソ政権を樹立させ、自国の勢力圏を拡大するものだったと言って良いだろう。
アジアにおいては日本が第二次世界大戦で敗北した後、中国は蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が激しい国共内戦を繰り広げていたが、後者をスターリンが支援した事で今に続く共産中国が覇権を握る事に繋がった。

また朝鮮半島においてはスターリンは金日成の朝鮮民主主義人民共和国成立を支援し朝鮮戦争を誘発、ここでも今の日本にとっても災いの種となる事象を生じさせたと言えそうだ。

公には脳内出血による死亡とされているスターリン

稀代の独裁者としてソビエトに君臨したスターリンだったが、1953年3月5日に公には脳内出血が原因であると発表され享年74歳でこの世を去り、実に党の書記長となった1922年から31年間もその地位を守った事になる。
これだけの長期間にわたって権力の座を維持し続けたスターリンだけに、その死についても暗殺や誅殺を指摘する声は絶えないが証明は困難で、今後もこれが覆される証拠は出てこないと考えられる。

スターリンと言えば多くの方が威厳を感じさせる口髭を蓄えた顔を連想し、体型的にも大柄な印象を抱かれているかも知れないが、意外な事に身長は163cm程だったとされ、上げ底の靴を愛用していたと言う。
スターリンの死後に党の第一書記となったニキータ・フルシチョフはその独裁体制を批判する姿勢を示したが、1991年のソビエトの崩壊後、現ロシアでは強固な国家運営を成しとげた手腕は再評価されている。

スターリンとは日本にとっては最も忌むべき独裁者

これまで述べてきたように2022年の日本の安全保障環境を俯瞰して見ると、かつては拉致、今は各種のミサイル発射を頻発させる北朝鮮、尖閣諸島沖の日本の領海に侵入を図る中国が脅威を与えている。
もっと直接的には北方領土を旧ソビエト・現ロシアに不法占拠されたままであるなど、今の日本を取り巻く脅威はスターリン時代に作り出された体制が大きな影響を与え続けている事は明白である。

その意味では日本にとって過去も現在も最も忌むべき悪影響を与えた人物こそがスターリンではないかと感じられ、20世紀に災厄をもたらした共産主義の独裁者としてその名を忘れるべきではないだろう。

featured image:National Archives and Records Administration, Public domain, via Wikimedia Commons

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