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彼岸花(ヒガンバナ)は本当に死を呼ぶか

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お彼岸の頃に咲く彼岸花(ヒガンバナ)は、死の影がちらつく花である。
「死人花」「葬式花」「地獄花」など、別名にも、暗喩にする配慮もなく、割と直接死が含まれる。
だが、この「何となく縁起が悪いもの」に関して、案外その由来については知らないものである。

由来を知らないのに、徒に遠ざける事は、意味がない。むしろ、恐ろしい警告を見逃す可能性すらある。
彼岸花(ヒガンバナ)の「死」は、一体何を伝えようとしているのだろうか?

目次

ヒガンバナの基本情報

まず、基本的な情報を確認しよう。
彼岸花は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。

夏期に地上部分を枯らす「宿根草」であり、秋にまず花から咲く。このため、いきなり花が現れたように見える。
関東に住んでいた頃、畑脇の思わぬ場所にいきなり彼岸花が咲き、驚いた事があった。
花の後に葉が出て、光合成で栄養を蓄えそしてまた夏に枯れる、こういうサイクルである。

死との関係

彼岸花が死に結びつけられる理由、それはまず、墓場の近くで咲くからである。
日本でも、かつては土葬が行われていた。
土葬の本質は、地中の生物による遺体の分解である。分解後の栄養は、当然植物を大きく育てる。
ヒガンバナが赤く綺麗に咲くのは、死体の血を吸う性質があるから――?

次に彼岸花が有毒である事。
彼岸花はユリ根と似た、鱗状の球根をつける。
本来あれほどの立派な花を咲かせるなら、まずたっぷりの葉で光合成をする必要がある。だが、秋から光合成を始めると、溜まった頃には冬になってしまい、受粉に必要な虫がいなくなる。なら、栄養を球根に貯蓄しておき、一気に花を咲かせて受粉まで済ませてしまう。そういう戦略である。だが、球根は彼岸花(ヒガンバナ)の栄養になるのと同時に、他の動物にとっても栄養源になり得る。

身動き出来ぬ植物にとって、毒は有り触れた防具である。
飢饉で餓え果て、毒と知りつつ球根を喰らい死んだ人を意味する――?
そして彼岸花は種をつけない。
死人の悲しみが、新たな子を生まれるのを阻害している――?

つまり彼岸花は人の死体から花を咲かせ、自分の毒で死体を作り、死体の山を築くという、栄養供給サイクルを作った恐るべき花である。行き場のない無念は、実らぬ花として現世を呪い続ける。それ故に死人花は、決してただの印象ではない。

少しの事実と大きな嘘

という辺りが、「何となく怖い」を言語化したものだろう。
前述した一連の話は、一部の事実と多くの誇張が混ざっている。

まず、人里にある彼岸花は、通常、どこかの時代で人間が植えたものである。
遺伝子が3倍体のため、種子によって増える事が出来ない。
辛うじて、土砂に球根が混じって増える可能性はあるが、稀な事である。
彼岸花が植えられた場所は、畑の周囲や寺院が多い。

彼岸花を畑の周囲に植えた理由は、毒を利用したものである。強い毒を持つ彼岸花は、害虫やモグラを寄せ付けないとされた。
害虫は当然として、モグラも作物の根を喰う、れっきとした害獣である。

だが、寺院に植えられたのは何故だろうか。やはり死体を栄養にしたのか?

もちろん否である。

土葬に必要な深さは現在の条例で2m。勿論、寝かせて埋める。
マンションなどで孤独死した死体がどうなるか、という話は諸兄も認識しているだろう。
大量の蛆が発生し臭気も耐え難い。
土中であろうが、半端な浅さでは染み出してしまう。野犬や狼が身近だった時代だ、むしろもっと深く埋めてもおかしくない。

死体の味を覚えたオオカミやクマが、人間を餌と認識すれば、狙われるのは子供である。
そんなに深くに埋められれば、当然、彼岸花の根は届かず養分も何もない。

救荒食としての彼岸花

結論から言えば、彼岸花は食糧として植えられていたのである。
毒があるのは事実だが、処理をすれば食べられる。

古来、作物には通常の作物と別に、飢饉の時のための救荒作物というジャンルがあった。
救荒作物は、育てるのが簡単で量が安定して確保出来るが、何らかの理由で普段は食べたくならないものがあてられる。

食べない理由としては、不味い事、食べられるようにするまでが面倒な事、そして有毒である事もしばしば理由になる。
栃の実もその類、南ではソテツがそうだった。そして彼岸花も、そのために植えられたのである。
有毒ではあるが、手間をかけて毒抜きをすれば食べられる。毎年世話をしなくても、勝手に花を咲かせ球根を保つ。種が出来ないから、変なところに勝手に増えないし、栄養も無駄に使わない。

逆に言えば、有毒であるからこそ、とも言える。
有毒ならそれを食べられる動物はぐっと少なくなる。食い荒らされる可能性が低く、余計な手間をかける必要もない。

彼岸花の風景に差す、死の影

飢饉や疫病が流行した時、寺は避難所になる。
広い境内にはしばしば木々が植栽されており、小屋を仮設するのにも都合が良い。
昔、僧侶は、大陸の知識にも触れられる、農村では数少ない知識人だった。医療に関する知見もあったろう。そして、人を救うことは仏教の功徳となる。

境内や、そこに近い墓地の周辺など、使いやすい場所に、手近に使える救荒食糧として、彼岸花が植えられたのである。
畑の周囲に植えられたものも、当然同じ目的を持つ。
つまり、死人花どころか、人を救う花なのだ。

それにしても、彼岸花のネガティブなイメージは強い。

戦中を過ごした高齢者の中に、サツマイモを嫌う人がいる。
戦中戦後の食糧難で、サツマイモばかり食べ、嫌になった、というものだ。
食べ飽きた、だけではない。
飢えの苦しみや、死んで行った親しい人、空襲の恐怖、そういった戦争の惨状を思い出させるのだろう。

彼岸花も同様だ。これを食べなければならない時、これを食べてしまえば後はもうなくなる。
飢饉の苦しみと、死者を見送った記憶が、この花と共に蘇ったのだろう。

彼岸花は死から人を救った花である。
これは間違いない。
だが、死の近くにいて、それを時に見送った花ではあった、それが実際のところだろう。

諸兄が彼岸花の印象をどう結論づけるかは自由である。

※画像はイメージです。

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