古代日本の危機と再生の道

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飛鳥時代、日本は内政の大きな転換と、国外との深刻な対立に直面していた。女帝たちが即位し、蘇我氏の支配が終わりを告げ、大化の改新が進む中、白村江での敗戦が国に重くのしかかる。
変革と危機の連続だったこの時代を、推古・斉明・天智らの動きとともに考察していきます。

目次

女帝推古と蘇我氏の時代

西暦592年に崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されました。その結果、適切な男性の皇位継承者がいなくなり、推古天皇が日本の初の女性天皇として即位されます。そして推古天皇は西暦628年に崩御されます。
舒明天皇が西暦629年に即位し西暦641年に崩御されます。西暦642年に皇極天皇が女性天皇として即位されます。皇極天皇は舒明天皇の皇后です。西暦643年に蘇我入鹿が聖徳太子の子息である山背大兄王を襲い、山背大兄王は自害します。

大化の改新と中大兄皇子の台頭

西暦645年に中大兄皇子と中臣鎌足が謀って蘇我入鹿を誅殺し、大化の改新が実行に移されてゆきます。西暦645年に皇極天皇は譲位され、孝徳天皇が即位されます。中大兄皇子の母は皇極天皇です。
また、孝徳天皇は皇極天皇の弟です。大化の改新によって、豪族達の合議制のような形であった政治が天皇中心の政治に変わってゆきました。

斉明天皇と白村江の戦い

一応、国内の危機的状況は回避されました。別の国難は海外の国々との間の衝突です。孝徳天皇は西暦654年に病没され、西暦655年に62歳の皇極天皇が重祚して斉明天皇として即位されました。当時、日本は百済とは同盟国のような立場にあり、新羅とは対立していました。新羅は唐と手を結び、やがて、西暦663年に、日本と百済の連合軍は、唐と新羅の連合軍と、白村江において戦うことになります。

男勝りの斉明天皇は、船団を率いて瀬戸内海海路を難波津から出発し、途上、船団は熟田津(にぎたず)に停泊しました。斉明天皇は、女性歌人である額田王(ぬかだのおおきみ)に兵を奮い立たせるような和歌を詠むよう命じられました。額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」と詠みました。「月が出て潮流も良い方向に満ちてきた、さあ乗船して出陣ぞ!」という感じの歌です。

筑紫に到着した斉明天皇は、朝倉宮に滞在されました。しかし、斉明天皇は、百済に向けて遠征船団が出発するより前の西暦661年に朝倉宮で崩御されました。ご葬列を山の頂上から見つめる鬼の話などの不穏な伝承も伝えられています。日本軍の動きを偵察する人物であったのかもしれません。

白村江の敗戦と天智天皇の即位

斉明天皇は、70歳に近い老境にありながら日本のためによく頑張られたと思います。女傑と言えましょう。推古天皇、斉明天皇、持統天皇など、血のつながりのある人々が争い合う厳しい時代に即位された女帝は、皆肝が据わっておられたようです。日本と百済の連合軍は、白村江の戦いにおいて唐と新羅の連合軍に大敗し、百済は滅亡しました。日本も多数の兵員を失って多くの民の悲しみを招きました。

中大兄皇子は、唐の侵攻に備えて山城などの防御陣地を整えてゆき、また、瀬戸内海を経由して唐軍が難波に攻め込んだ場合に備えて大津宮に遷都しました。そして、西暦668年に大津宮で天智天皇として即位されます。やがて、天智天皇は唐との和解を進めてゆきます。

結論的には、白い雉のおかげでしょうか、日本は、古代日本の最大のピンチをくぐり抜けることができました。

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