ミ・ナーラに降りかかるのは「長屋王の呪い」?!

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奈良市にあるショッピングセンター「ミ・ナーラ」。
この施設は開業後まもなくテナントの撤退が相次ぎ、運営母体や事業内容が短期間で入れ替わってきたことで知られている。その経緯から、地元ではいつしか「ここは呪われているのではないか」という噂が、まことしやかに囁かれるようになった。

実のところ、この場所は奈良時代の有力皇族・長屋王の邸宅跡とされる土地の上に建っている。
政争の末に非業の死を遂げ、後世に「怨霊」として語られてきた人物の名と、現代の商業施設の不調が重なり、人々はそこに因縁を見出した。

果たして「ミ・ナーラ」に降りかかる不運は、長屋王の呪いなのか?
この噂を考察していく。

目次

皇統の中心にいた長屋王

はじめに、長屋王に関して説明をする。
この人物は、奈良時代前期、中央政界の中枢にいた皇族。
父に天武天皇の皇子・高市皇子、母に天智天皇の皇女を持ち、天武天皇の孫であり、同時に天智天皇の外孫という極めて強い皇統的正統性を備えていた人物だ。

彼は名目上の皇族に留まらず、左大臣として実際に政治を動かす立場にあり、その存在は、当時急速に台頭していた藤原氏にとって、無視できるどころか明確な脅威だった。

藤原氏の台頭と不穏な均衡

大化の改新以降、藤原氏は外戚関係を利用しながら、着実に政界での地位を固めていく。
聖武天皇の皇后・光明皇后が藤原不比等の娘であることからも分かるように、皇位と藤原氏はすでに深く結びついていた。

724年、聖武天皇の皇子・基王が皇太子に立てられる。
基王は生後まもない幼児で、立太子そのものが当時としても異例の措置だった。
史料からは、長屋王がこの決定に否定的だった可能性がうかがえるが、具体的な反対行動や発言が記録されているわけではない。しかし、基王が成長して即位すれば、藤原氏の外戚支配は盤石になる。
この皇太子の存在は、藤原氏にとって政治生命を賭けるに値する切り札だった。

長屋王の変

転機が訪れたのは729年である。
この年、「長屋王が皇太子・基王を呪詛した」という密告が、聖武天皇のもとにもたらされた。
この告発が事実だったかどうかは、検証されていない。
それでも藤原氏は、この密告を政争に終止符を打つ好機と捉え、即座に行動を開始する。

都の関所は封鎖され、長屋王の邸宅は兵によって包囲された。
数日にわたる取り調べの末、長屋王はもはや助かる道がないことを悟り、妻子とともに自邸で自害する。
これが、後に「長屋王の変」と呼ばれる事件である。

藤原四兄弟の死と怨霊の誕生

長屋王の死後、政権は藤原氏の独占状態となるが、その支配は長くは続かなかった。

735年以降、藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が、数年のうちに相次いで命を落とす。
死因は天然痘であり、当時の日本列島を襲った大規模な疫病流行の一環だった。
この流行は皇族や貴族も容赦なく飲み込み、日本史上初の本格的なパンデミックと位置づけられている。

しかし人々は、この出来事を単なる疫病とは受け取らなかった。
長屋王を死に追いやった藤原氏の中枢が次々と倒れたことで、長屋王の怨霊が復讐したのではないかという噂が広まり、彼は政治的敗者から、祟る怨霊となった。

現代に残る長屋王邸跡

時代は下り、昭和後期。
奈良市二条大路南の一帯で大規模な百貨店建設計画が持ち上がった。この場所は平城京左京三条二坊にあたり、奈良時代の有力貴族の邸宅が存在した可能性が以前から指摘されていた地域である。
そのため建設に先立ち、1980年代後半、奈良文化財研究所による本格的な発掘調査が行われた。

調査の結果、邸宅跡とみられる大規模な遺構とともに、三万点を超える木簡が出土する。
その中には「長屋皇宮」と記された木簡が含まれており、これによって、この地が文献上で推定されてきた長屋王の邸宅跡であることがほぼ確定した。
長屋王邸の正確な所在地が考古学的に裏付けられたのは、この発掘が初めてである。

発掘調査終了後、当初の計画通り敷地は商業施設として開発され、1989年に百貨店「そごう奈良店」が開業した。
しかし経営は長続きせず、2000年に閉店。その後、建物を引き継ぐ形で「イトーヨーカドー奈良店」が開業するものの、こちらも2017年に閉店している。
現在、この場所は複合型商業施設「ミ・ナーラ」として再開発され、姿を変えながら利用され続けている。

なお、発掘で確認された遺構の多くは地下に保存された状態にあり、出土品は平城宮跡資料館などで公開されている。

果たして呪いなのだろうか

長屋王は、政争に敗れ、冤罪の可能性を残したまま排除された皇族である。
そのため、権力闘争の後に残された人々の恐怖の念から怨霊として語り継がれること自体は、むしろ自然な流れだと言える。

商業施設の変遷と長屋王邸跡を直接結びつける学術的根拠は存在しないが、皇族の邸宅跡の上で幾度も事業主体が入れ替わった事実が、「長屋王の祟り」となったことは否定できないかもしれない。
だからといって、長屋王の墓が暴かれたわけでもなく、遺骸が穢されたいう事もなく、約1250年以上もの時間が経過して長屋王の邸宅跡に商業施設が建設された事に腹を立てるとは思えない。
そもそも、冷静に考えればかなり無理のある話ではないだろうか。

問題は立地条件や経済状況、消費動向といった現実的要因であり、呪いとの直接的な因果関係はないだろう。
それこそ、人々の恐怖の念が生み出した産物に他ならない。
恐怖は、常に外から降ってくるのではなく、人の内側で形を与えられて増幅していく典型だと思うのだ。

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