開元の治によって、唐に全盛時代をもたらした玄宗皇帝は則天武后の孫でもある。則天武后の実家の勢力や中宗の皇后との間の修羅場を勝ち抜いて皇帝になり、唐朝を復活させ、けっして甘い人物ではない。
阿倍仲麻呂が玄宗皇帝に信頼された訳を考えてみました。
隋帝国の時代について
本題に入る前に阿倍仲麻呂の生きた時代に近い、隋帝国の時代について述べる。
隋の帝室楊氏は現在の内モンゴル自治区で北魏の国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、漢民族と非漢民族の両方の血筋を有する家柄であったといわれている。
やがて西暦589年に、楊堅(後の文帝)が中国全土を統一して隋朝を創始する。そして均田制および府兵制を整備し、科挙を創始して実力主義を求め、律令国家としての体制を作り上げた。
この当時、世界中を見渡しても、このような画期的な組織を有する国は見当たらない。さらに言えば、短かい年月で滅んだ隋の後に大帝国を築いた唐王朝が創始された。唐王朝を築いた李氏も、漢民族と非漢民族の両方の血筋を有する家柄のようである。
唐王朝は、隋王朝が創始した律令体制を引き継ぐとともに、隋王朝の短期滅亡の原因は皇帝の誤った行いを諫める人がいなかったためであろうと考え、第2代皇帝李世民が、諫言を任務とする「諫官」の制度を設けた。純粋の漢族ではなかったためか、異民族に対し寛容なところがあり、国際的な国家として成長していったのである。
西暦663年、百済と日本の連合軍は、唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗れ、ここに百済は滅亡。天智天皇率いる大和朝廷は、北九州から瀬戸内海沿いにかけて山城を築き、防人の制も制定して、守りを固め、その後、大和朝廷は唐帝国との関係改善を試み、遣唐使派遣はそれを目的の一つとしていた。
阿倍仲麻呂とは
阿倍仲麻呂は、西暦698年に中務大輔阿倍船守の長男として大和国に生まれた。阿倍氏は皇別氏族である。海外の文化や学問に興味を持ち、学力と容姿に優れていたので、19歳のとき吉備真備らと共に第9次遣唐使に同行して唐に渡ることができた。
唐の詩人儲光羲は、詩の中で阿倍仲麻呂のことを「容姿が美しく才能豊かである」と誉めている。
唐の都の長安において最高学府で学んだ後、超難関の科挙試験の進士科に合格したか、または進士科に推挙された。進士になった阿倍仲麻呂は、西暦721年23歳のときに「左春坊司経局校書」という役職に任官された。それは「皇太子の家政機関において書庫を管理し、高官の文筆を補佐する書記官」の意味であるという。第9代玄宗皇帝は皇太子の蔵書に関する面での教育係を阿倍仲麻呂に頼んだことになる。
玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝から「晁衡」という唐名を賜る。「晁」は、「朝/夜明け」などの意味をもち、おそらく「唐の朝廷」の意味をもち、「衡」は、「適否をはかる」「平につりあいがとれる」などの意味をもつ。つまり、「常識に照らして教育になる良い書物を皇太子に推薦し、またその内容を説明してやってほしい!」ということであろうか?
そうであれば、玄宗皇帝は、阿倍仲麻呂に対し、かなり心の内を開いたことになる。
唐帝国の雰囲気は、礼を以て中華文明に接近してくる外国からの留学生に対してはフラットであり、やはり当時の世界帝国であったのであろう。ちなみに、阿倍仲麻呂は、白村江の戦いに参加した後将軍阿倍比羅夫の孫にあたる。阿倍仲麻呂は、西暦727年29歳のとき左拾遺(皇帝の過失を諌めて補う職)に、西暦731年33歳のとき左補闕(官位が高い諫言専門の職)になり、皇帝の側近の立場を得た。
帰国を望む
西暦734年に吉備真備らが帰国する。阿倍仲麻呂も帰国を望んだが許されなかった。「諫官の制度」に関する前記の説明と併せて考えると、玄宗皇帝がいかに阿倍仲麻呂を信頼し重用していたかが判る。この時期、進士の後輩にあたる儲光羲や、李白および王維といった世に賞賛された詩人達との親交を深め、阿倍仲麻呂自身も詩を作り、後続の遣唐使の世話や遭難の救助などもまかされている。
年月を経て、阿倍仲麻呂は帰国を望んだが、玄宗皇帝がそれを望まず容易には許可されなかった。しかし、西暦753年55歳のとき遂に帰国の許可が出て、後続の遣唐使の船で帰路についたが嵐に遭遇し、結局唐まで戻ることになる。この時、漂流して流れ着いた地で現地人の襲撃を受けたが、阿倍仲麻呂ら十数人だけは襲撃から逃げのびたという。阿倍仲麻呂が指揮を執って戦い襲撃隊を突破した可能性もある。
都護
その後、安禄山の乱を経て西暦756年、玄宗皇帝が退位し粛宗が即位する。西暦759年に再度帰国の話があったが保留になるのがだ、「都護」の候補に挙がっていたからであろう。
西暦760年62歳のとき鎮南都護になり、西暦766年68歳のとき安南都護になる。「都護」とは、中央から派遣されて、相当広い地域の軍政と民政を統括する重要な官職である。
安南は現在のベトナムの北半分の地域を指し、当時は多民族国家ともいえる唐が統治していた。ベトナムの首都ハノイにあるタンロン遺跡の場所に安南都護府があったことが判明している。タンロン遺跡の場所には、後世のベトナム王朝が壮麗な建物を築いている。
阿部仲麻呂は、高齢になっていたが高位への出世であり、都護としても業績を残したという。阿倍仲麻呂は、詩や和歌などの文化的なことがらに優れていたというイメージがあるが、祖父は水軍を束ねて活躍した著名な将軍であり、その血を受けて軍事面でも見かけによらず優れたところがあり、そこを粛宗が見込んで都護に任命したのではなかろうか?
生涯
やがて長安に戻り西暦770年72歳で客死する。唐の皇帝は第11代の代宗であった。このとき、「唐土の遺族少なく云々」という話が出ているので唐人の妻と子が居たと思われる。
阿倍仲麻呂は、ハンサムであったが若い時から浮いた噂もなく、詩作仲間などと健全な交友関係を築き、高齢になっても能吏として仕事に励む、現代の「仕事人間」のような側面を有していたのだろう。
人生のほとんどを唐国にいたせいで、自分の親族に対する義理(儒教で言う「義」)を果たせなかったことは残念であるとも言っている。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は、西暦753年55歳のとき日本への帰国の送別の宴において友人達の前で阿倍仲麻呂が故郷を懐かしんで詠んだ和歌といわれているが、その席でのことかどうかはさだかではない。
ところが、阿倍仲麻呂が乗船が難破したという噂が伝わり、李白はそのことを悼んで下記の詩を詠んだ。
七言絶句中に美しく嵌め込まれた言の葉には阿倍仲麻呂を心から悼む気持ちがにじみ出ている。
「哭晁卿衡 李白」・・・晁卿衡のことを慟哭する 李白
哭晁卿衡 李白
日本晁卿辞帝都・・・日本の晁卿は帝都を辞した
征帆一片繞蓬壺・・・海原を行く一片の帆は蓬壺(海原にある仮想の山で蓬莱山のこと)を繞(めぐ)る
名月不帰沈碧海・・・名月のような貴方は(日本に)帰らず青い海に沈んでしまった
白雲愁色満蒼梧・・・(晁卿の死を)愁うる白雲の色は蒼梧(中国古代の舜帝の墓があるとされる山)に満ちている
結論を言うと阿倍仲麻呂は、生涯をかけてお互いの間の真の敬意と友情を育み、両国の間の良好な関係を構築することに大きく貢献したといえる。鑑真和尚の来日の実現にも影響があったと思う。
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