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愛人を去勢し陰部を持ち去った昭和の猟奇殺人「阿部定事件」

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皆さんは昭和に実在した烈婦・阿部定と、彼女が起こした凄惨な事件をご存知ですか?
のちに阿部定事件と俗称されるその事件にて、犯人の阿部定は情夫を殺害し、遺体の局部を切り取って姿を消しました。
今回は昭和の人々を戦慄せしめた猟奇事件、阿部定事件の全容を解説していきます。

目次

阿部定の生い立ち

阿部定は明治38年5月28日生まれ。実家は東京都神田の畳屋「相模屋」です。
阿部家は子沢山であり、八人兄弟の末っ子として生まれた定は、ことのほか家族に可愛がられました。
少女時代は母親に言われるがまま、三味線や常磐津の稽古に打ち込みました。地元では評判の美少女で、「相模屋」の看板娘として親しまれていたそうです。
特に母親の過保護ぶりは有名。習い事に送り出すたび定の着物を新調し、学業より稽古の方を優先させたというのですから、些か度を越していたのは否めません。

転機は14歳、衝撃的な初体験がトラウマに

定が14歳の時、のちの人生を決定付ける悲劇が起こります。たまたま遊びにきていた慶應大の学生とじゃれあってる最中に犯されてしまったのです。
当時、阿部家には兄姉の知り合いが大勢出入りしていました。彼等の行為を覗き見る形で男女の営みに触れた定は、早熟な好奇心を芽生えさせ、年上の青年と戯れたと言われています。
が、知っていたのはあくまでさわりだけ。その証拠に生理の仕組みにはとんと無知で、初潮さえ迎えていませんでした。

股間の出血が二日止まらず、「病気じゃないか」と怯えた定が母親に泣き付いたことで事件は発覚。
母親は怒り狂って抗議を申し立てに行ったものの、加害者とは最後まで会えずじまい。定は「もうお嫁にいけない」と打ちひしがれ、自暴自棄に陥りました。
家族じゅうに腫れ物扱いされる中、娘を哀れんだ母は彼女のわがままをなんでも聞き、欲しいものは全て買い与えました。それが却って癪に障り、定は暴れ狂います。

時同じくして阿部家に相続問題が勃発。長男と長女の対立が激化し、家庭内はピリピリしていました。
定は母親に小遣いをもらっては不良仲間を誘い、夜遅くまで浅草で遊び倒すようになります。
激怒した父に折檻されても行いは改まらず、坂道を転げ落ちるように堕落していきました。
定16歳の時、三女に縁談が持ち上がります。末娘の行状が姉妹の結婚に及ぼす影響を恐れた両親は、定を奉公に出すことに決めました。

奉公先で巻き起こすトラブル

とはいえ、じゃじゃ馬な定に女中が務まるはずありません。屋敷の着物や宝石を盗んだのがばれるまで、さほど時間はかかりませんでした。
以降一年間、父親の監視のもと謹慎生活を送ります。
一年後、長男が店の金を持ち逃げ。「相模屋」は倒産に追い込まれ、一家は埼玉に引っ越します。
転居先でも男遊びをやめない定に業を煮やした父は、「そんなに男が好きなら芸妓になっちまえ!」と、女衒の秋葉正義に娘を売り飛ばしてしまいました。

秋葉の口利きで芸妓デビューを果たした定は、生まれ持った美貌と手練手管を駆使し、めきめき頭角を現していきます。
まずは横浜の芸妓屋「春新美濃」と契約。源氏名「みやこ」と称し、座敷の人気者に成り上がります。
定は四年間、ヒモ同然の秋葉を養い続けました。関東大震災で彼の実家が倒壊した際は、親兄弟に経済的援助を申し出ています。

日本中を震撼させた凶行

20歳の時、蜜月は終わりを迎えました。秋葉に食い物にされていた事実に気付き、娼妓に鞍替えしたのです。
男性を悦ばせる素質には恵まれていたものの、定の周囲にはトラブルが付き物でした。
もともとの勝気な性格に加え手癖が悪く、客や同僚とのトラブルが絶えなかったのです。
関西中心に放浪を続けながら、狂ったように男漁りを続け、毎日のように情事に溺れる定。

経験を重ねることで最悪の初体験を上書きしようとしたのでしょうか、真相はわかりません。
そんなある日、定のもとに予期せぬ一報が舞い込みます。過去に関係を持った、秋葉の娘が死亡したというのです。
秋葉の娘の墓参りに赴いた定は、そこで秋葉本人と再会し、愛人関係が復活しました。
昭和10年4月、定はこれまた愛人となった議員の紹介で、東京のうなぎ料理店「吉田屋」に働き口を得ます。
この「吉田屋」の主人が阿部定事件の被害者、石田吉蔵でした。

去勢に見る、阿部定事件の猟奇性

事件の発生日は昭和11年5月18日、二・二六事件の僅か3か月後。定と吉蔵は店の人間の目を盗み、待合旅館「満佐喜」で密会しました。
二人のお気に入りは窒息プレイ。行為中の定が紐を用いて吉蔵の頸部を締め上げ、絶頂を引き伸ばすのです。
行為中、定は包丁を陰茎に突き付け、「浮気したら刺すわよ」と脅迫。すると吉蔵は笑い、自分の首を腰紐で絞め上げる定に向かい、「もっと強く締めてくれ」と懇願したそうです。
吉蔵が定にのめりこんだのは、妻に頼みにくいアブノーマルな性行為を要求できたのと無関係ではありません。
さらには「殺すんなら痛くないように、眠ってる間にやってくれ」と唆しています。
二日連続で投宿した定は、熟睡中の吉蔵を絞殺したのち、局部を切り取って姿を消しました。
現場のシーツには傷口から滴った血で「定吉二人キリ」と記し、さらには吉蔵の左腕に、「定」と自分の名前を刻んだそうです。

シリアルキラーがある種のトロフィーとして、遺体の一部を持ち去る例は決して少なくありません。
定の事件がレアケースなのは、シリアルキラーの無差別的犯行と隔たり、被害者が不倫相手だったこと。
何故指でも首でもなく局部を選んだかは想像する他ありませんが、男の性欲に翻弄され続けた定には、その部位にこそ人格が宿っているように思えたのでしょうか。
3日後に逮捕されるまで、吉蔵の局部を懐紙に包み、大事に持ち歩いていた定。発見時の局部はカラカラに萎び、ミイラのような色合いに変化していました。

この犯行は史上類を見ない猟奇事件と報じられ、阿部定は愛人の遺体を去勢した、希代の毒婦として一躍有名になったのです。なお、定は吉蔵の殺害動機を以下のように供述しています。
「好きでどうしようもないから殺しました。そうすれば他の女は指一本さわれないでしょ?アレを切り取ったのはあの人の一番可愛いものだから、一緒に連れてったのよ。奥さんの好きにされるなんて嫌だもの」
後日、定は兄に絶縁を言い渡されます。
しかし歴代の愛人の中で最も長続きした秋葉だけは見捨てず、獄中の定の面会に通い詰め、親密に話し合いを持ったそうです。

その後の阿部定

阿部定は石田吉蔵に対する殺人と死体損壊の罪状で求刑10年を言い渡されました。が、実際に下された判決は懲役6年。
殺人事件にもかかわらず軽い刑で済んだのは、被害者の合意をほのめかす発言があったこと、トラウマから来るヒステリー気質が加害者に認められたことと関係しています。定の行為をメロドラマ仕立ての美談と見なす世論も無視できません。

昭和16年に出所した定は、吉井昌子と名を改め、会社員の男性と同棲を始めます。
しかし戦後流行したカストリ雑誌に正体をすっぱ抜かれ破局、出版社を名誉棄損で訴える事態に発展します。
その後も転居と転職を繰り返したものの、行く先々にマスコミが付き纏うのに嫌気がさし、1970年代に蒸発。瀬戸内寂聴が子供時代の思い出として語った所によると、晩年の定は見世物一座に属し、事件の講釈に交えて陰茎の模型を披露していたと言います。
実際の陰茎と睾丸は東京医科大学の病理学博物館に展示され、第二次大戦後しばらくは一般公開されていたというのですから、なんとも驚きですね。

吉蔵の墓に花を手向けた人物

以上、昭和を代表する毒婦・阿部定の生涯を解説しました。
この事件にはロマンチックな後日談があり、吉蔵の命日に墓に花を供えに来たのが定ではないか、と妄想する人々がいたことを付け加えておきます。

featured image:English: Tokyo Asahi Shimbun日本語: 東京朝日新聞, Public domain, via Wikimedia Commons

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