いまだに人種差別問題が起きるアメリカの人にも読んでほしい、日本の歴史の事実をまとめてみます。
織田信長は合理的な考え方で、偏見なく人を有能かどうかで見る人だったようです。
その証拠が豊臣秀吉。
歴史の番組で「史上最も低い身分から成り上がった人」と歴史学者がコメントしておられましたが、どんなに有能でも信長以外の武将の下では、秀吉は認めてもらえなかったのは間違いないところです。
そういう信長は完璧な人間じゃなく、短気で怒りっぽい気質で、特に無能な人間を嫌いました。
私は信長はアスペルガー症候群だったのではと疑ってるのですが、こういう人は相手の気持ちがわからず共感性がなく、コミュ障害の代わりに、偏見もなく因習や常識にとらわれないために、新しい時代を切り開くときには大活躍するんですよね。
ということで信長の時代は南蛮貿易が盛んになり、鉄砲からキリスト教まで入って来ました。
信長は鉄砲をうまく取り入れたし、安土城も実にユニークな城だったと言われています。
そしてキリスト教を信仰するというよりは宣教師たちから情報を得たり、新しい考えやものを取り入れるのに利用していたみたいなんですよね。
宣教師たちは宣教師たちで、信長に取り入ってキリスト教をもっと布教したいと利用していたようで、今でいうwin winの関係だったのでしょう。
そういうとき、宣教師ヴァリニャーノはアフリカ系奴隷を連れて信長の謁見に臨みました。
生まれて初めてアフリカ系の人を見た信長はびっくりして、墨をぬったのではとお風呂へ連れていってごしごし洗わせたそうです。
このアフリカ系の男性は、宣教師の報告書や記録から、当時ポルトガル領だったモザンビーク出身だと言われています。
信長は、彼を気に入って側に仕える家臣として召し抱え、どこへでも連れていったそうです。
弥助と名付け(たぶん「や」で始まる名前だけど、信長は正確に発音できなかったのでは?)、正式な身分の侍に取りたてただけでなく、信長は、弥助をゆくゆくは軍勢をもつ武将にして、殿(城持ちの大名)にするつもりだと言っていたそうです。
弥助は家と刀を与えられ、信長のお付きとして道具持ちをしていたと書いた文書があり、180cm越えの大男で27歳くらい、「十人力の剛力」で「牛のように黒き身体」だったとか。
これは信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる1年ほど前のことでしたが、奴隷として連れてきた弥助を侍身分にして仕えさせたというのは、ものすごく重要なことだと思います。
弥助は美少年の森蘭丸と一緒に側に控えていたのでしょうか?
しかしあの信長が気に入って側に仕えさせ、さらに城持ち大名にするというならば、弥助はかなり有能な人物だったはずです。
本能寺の変の時、弥助は本能寺から信長の息子信忠への使いとして二条城へ行き、そのまま二条城で明智勢と戦ったが投降、南蛮寺に送られたということで、以後消息不明だそうです。
日本になじんで生涯を送ったならばいいのですが・・・
信長がもう少し長生きしていれば、弥助はアフリカ系武将として城持ち大名になり、歴史に名を残していたかもしれないと考えると興味深いです。
でも信長、弥助に苗字もつけてほしかった、それでこそ武士なのにと、それはちょっと残念ですが、弥助はなぜか最近あちこちで取り上げられるような気がしたので検索したら、ハリウッド映画の主役になったようで嬉しかったです。
eyecatch source:Cpl. Kenneth Trotter, Public domain, via Wikimedia Commons
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