MENU

ソ連とタリバンが恐れたアフガンの英雄~アフマド・シャー・マスード

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

9.11米同時多発テロの2日前、1人の男が国際テロ組織アルカイダに暗殺された。
「いまにテロリズムが世界中に広がる」——彼の警告は国際社会に届かなかった。テロの温床となった祖国を嘆き、自由と平和を取り戻すため、タリバンに抗しつづけた「パンジシールの獅子」が道半ばで斃れた。

ある人が彼のことを「アフガンの希望」と呼んだ。ある人は「闇を切り拓く光」と。
人生の大半は戦いの日々だった。
男の名はアフマド・シャー・マスード。死後に「アフガニスタン国家英雄」の称号を贈られた、伝説の司令官である。

目次

アフガンの空の下で

大国・隣国の干渉や民族紛争が絶えず、混迷きわまる歴史を紡いできた多民族国家アフガニスタン。
たびたび国号が改まるのは、政権奪取が頻繁に行われてきたことの証だ。ここ最近の例を挙げると、2021年までの正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国。復活したタリバンによる暫定政権が敷かれている現在は、アフガニスタン・イスラム首長国。日本政府による渡航情報が「レベル4」の国である。
そんなアフガニスタンに唯一、ソ連軍にもタリバン政権にも攻め落とすことができなかった聖域が存在した。アフマド・シャー・マスードの故郷であり、のちに抵抗運動の拠点となったパンジシール州である。首都カブールの北方に位置するこの地を、マスードは一度も侵略させることなく守りぬいた。

ムジャヒディン(イスラム聖戦士)の司令官として支配勢力タリバンに抵抗し、民衆から期待と尊敬を集めたマスード将軍が非業の死をとげて22年。
「あなたにとって勝利とはなにか?」。かつてジャーナリストが投げかけた問いに、マスードはこう返した。
「血では解決しないということに、すべての勢力が気づくこと。平和をつくるのは対話なんだよ。国民には選挙によって自らの将来を決めてほしい。それこそが最大の勝利だね」
タリバンは国民の支持によって実権を掌握したのではなく、パキスタンの軍事支援によって勢力を広げただけだから、パキスタンの援助が断たれればタリバンを半年で落とす自信があるとも口にしていたという。

歴史に「もし」はない。それでも、もしマスードが生きていたらアフガニスタンの今はどうなっていただろうと考える。現在のアフガン情勢をみるにつけ、そう思わずにはいられない。
48年間の短い人生の多くは戦いに費やされた。前半の敵はソ連、後半の敵はタリバンだった。

ソ連を撃退した戦略家

カブール工業大学で建築を学んでいた20歳のころ、ソ連によるアフガニスタンの衛星国化がはじまった。当時のソ連は世界に誇る社会主義大国。アフガニスタン全土でイスラムの抑圧が行われ、マスードは学業を断念せざるをえなくなり、故郷に戻る。
4月革命によって誕生した共産党政権は、案の定、イスラム的価値観と真っ向から対立した。結果、各地で反政府勢力が次々と興る。共産党政権による武力鎮圧は困難と判断したソ連は、アフガニスタンが勢力圏から離れることを恐れて、1979年12月にアフガニスタンへ軍事侵攻する。のちにモスクワオリンピックの大量ボイコットを招き、ソ連崩壊の遠因にもなった大失策である。

迎え撃つムジャヒディンにとって、この戦争はイスラム教を守るジハードだった。ムジャヒディンとは、イスラム教を守る聖戦に身を投じる戦士をさす。
マスードは故郷パンジシール本拠地をおき、若き司令官として優れた軍略を発揮する。ソ連軍と政府軍の大攻勢をことごとく退け、ソ連に大打撃を与えたのだ。ソ連軍はアフガニスタンをうまく攻めきれず、ついに撤退に追いこまれる。

マスードの懐の深さを表す、このときのエピソードが残っている。敵軍の撤退を知った彼は捕虜を自主的に解放し、撤退を妨害しないことを約束したのだ。つい先刻まで命を賭して戦っていた憎き侵略者に対して、このような寛大な措置がとっさにとれるものだろうか。

1992年、共産党政権は倒されてアフガニスタン・イスラム国が成立。マスードはそのもとで、国防大臣、政府軍司令官をつとめることになった。

タリバン登場

ソ連との戦争のあとにやってきたのは泥沼の内戦だった。アフガニスタンは多民族国家なのだ。
ムジャヒディン同士の抗争が起こり、国内は軍閥や武装勢力が割拠する状態に突入する。各地で市街戦が勃発し、略奪や暴行が横行した。
欧米諸国にとっては、ソ連さえ手を引いてくれればそれでよい。アフガニスタンは国際社会に放置された形になり、こうした状況のなかで隣国パキスタンが干渉する余地が生まれた。考えることはソ連と同じで、国内を平定して自国の影響力を及ぼしたいという思惑があったのだ。他国の干渉に待ったをかけ、「アフガニスタンのことはアフガン人が決める」との信念を貫いたのがマスードだった。

先のみえない混迷のなか、突如として謎のイスラム原理主義勢力が台頭する。この武力勢力の名はタリバン。タリバンが首都カブールを制圧し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言すると、マスードは反タリバン勢力をまとめあげ、北部同盟(救国・民族イスラム統一戦線)の旗のもと、副大統領・軍総司令官・国防大臣に就任した。
やがてタリバンは国土の大部分を支配下におき、北部同盟の本拠地であるパンジシールにも進攻する。マスードは軍略や組織力を駆使して、独立国家共同体の国境線を死守していた。

死の5か月前、マスードはフランスとベルギーで開かれた欧州会議に出席し、タリバンとアルカイダを支援するパキスタンを非難する声明をだしている。国際社会に向けて、アフガニスタンの現状を訴えていたのである。

突然の死

2001年9月9日、アルカイダがアメリカを攻撃する2日前のことだった。マスードの人生は唐突に断たれた。
インタビューを受けている最中に起きた自爆テロ。暗殺者はジャーナリストを装った、自称アルジェリア人の男2人。うち1人は木端微塵になり、もう1人はマスードのボディガードに射殺された。長きにわたる盟友であり、北部同盟の幹部であったマスード・ハリリが現場に居合わせた。以下はハリリの証言。

「インタビュアーがカメラマンに撮影の準備を指示した。カメラマンはテーブルを引っぱって脇にどけたが、そのやり方があまりに乱暴で、不愉快だった。『こいつはレスラーなのか?』と私が言うと、マスードは笑って、『まあ、彼に自分の仕事をさせようじゃないか』と言った。テーブルがあった場所に三脚を置いて、カメラを取り付けるとき、カメラマンが私の顔を見た。毒気のある笑いだった。カメラを設置すると「準備よし」と言った」
「突然爆発音がした。やられた、と思った。最初は外から攻撃されたと思ったが、カメラから青い炎が吹くのがみえた。気づいたとき
はヘリコプターのなかだ。マスードが横にいた。顔中血だらけで、髪も血で濡れていた。まだ生きていると思って、彼に声をかけようとした」
「ヨーロッパ滞在中、マスードはインタビューでもウサマ・ビンラディンに挑んでたよ。『ウサマは殺人者だ。ムスリムではない』と。このテロが奴のしわざなのはわかってる」

マスードの夢

イスラム教の教えに厳格な一方で、その人間性と軍事的才能から兵士たちに慕われ、人望を集めたマスード。
たとえそこが戦場でも、彼のいるところは殺伐とした空間ではなかった。詩を朗読して聞かせ、寸暇を惜しんで読書にいそしみ、ときには冗談を言って、血の通った人間の居場所をつくることに心を砕いていたという。ボディガードをつけなくても、みんなが彼を守ろうとした。

そのカリスマ性に魅了された人々が、多くの筆録を残している。もちろん死後に美化された部分はあるだろう。あのニューヨークのテロ事件以降、「善玉=米国あるいはマスード」「悪玉=タリバン」という図式でアフガン情勢が報じられてきたのは事実なのだから。

1983年のソ連軍第6次攻勢を退けたのち、マスードは将来の夢についてこう述べた。
「この国を解放したら、国民が信頼できる政治家にあとはまかせて、大学に戻って建築学を勉強しなおすよ」
マスードの人生は復学どころではなくなった。40代にしては老成した面差しは、戦いに身を捧げた男の履歴書のようにもみえる。アッラーは、もう休んでよいと言ったのだろうか。命をかけて蒔いた種が芽吹くときはくるだろうか。

アフガニスタンはいまだ混迷のなかにある。その行く末に関心をもちつづけたいと思った。

※画像はイメージです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次