赤穂浪士の意外な後日談

12月になると必ず登場する人気の物語、「忠臣蔵」のもととなった赤穂浪士の後日談です。
ちょっとおもしろい話を見つけたので、ご紹介しますね。

江戸中期、戦国時代が遠い昔となった元禄時代、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家の吉良上野介義央に江戸城での勅使接待でいじめにあったなど・・・はっきりしない理由で、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に斬りかかってけがを負わせた事件がぼっ発。

大事な行事(母桂昌院への叙勲)が中止となった怒りで5代将軍綱吉が即刻浅野内匠頭を切腹、お家取り潰しの処分を下し、吉良上野介はおとがめなしだったということで、浪人となったもと家老大石内蔵助良雄と赤穂藩士たち48人が約一年後に吉良邸へ討ち入りして、主君の恨みを晴らしたというあの事件で、私はこういう事件の後日談に興味があるのです。

当時の江戸はこの事件に拍手喝采、赤穂浪士は一躍ヒーローとして名前が日本全国にとどろきます。
赤穂浪士たちは吉良の首を泉岳寺の主君のお墓にそなえた後、幕府に自首し、いくつかの大名に分散して罪人として預けられたんです。

そこで登場するのが、熊本藩主4代目の細川綱利62歳です。
この人は細川忠興のひ孫にあたりますが、このとき江戸城で老中に浪士たちの預かり先として指定されると、なんと847人の藩士を受け取りに派遣。

大石内蔵助ら17人を身体検査し、けが人もいたので全員をひとりずつ駕籠にのせて細川家下屋敷に移送。
けが人を気遣ってゆっくりと移動したため到着が真夜中になったのですが、殿さまの綱利みずから起きて待っていたそう。

綱利は大石内蔵助らと対面し、すぐに二汁五菜の料理、菓子、茶などを出し、罪人の部屋とは思えないような庭に面した部屋に住まわせて、当時は贅沢だった風呂も1人1人湯を入れ替えて入らせたとか、老中の許可を得て酒やたばこもいけたそう。
もちろん毎日の料理も刺身とかの御馳走三昧だったので、大石内蔵助らが贅沢すぎるので普通の食事にしてほしいと嘆願したほどの好待遇だったということなんです。

尚、赤穂浪士を預かった藩は他にもあり、罪人扱いしていたところも細川家の影響で(江戸庶民も黙ってなかったし)にならって待遇改善されたんですよね。

綱利は個人的に赤穂浪士たちに感銘していたので、幕府に対して彼らの助命嘆願をしたうえ、助命が叶えば全員を細川家で召抱えたいと希望。

さらに2度にわたって愛宕山にお参りして助命祈願の神頼みもし、願掛けのため、赤穂浪士を預っている間は精進料理を食べていたといいます。もちろん自らも大石らに話を聞き、藩士にも聞き取り調査をさせて記録をとることも怠らず。

幕府では赤穂浪士たちの処分はけっこうもめたので、1カ月以上はこの好待遇が続きました。
しかし綱利の願いもむなしく翌年の2月、赤穂浪士たちの切腹処分が決定。すると綱利は、赤穂義士達に対して無礼のないようにと、大石良雄の介錯を重臣にさせて、それ以外の者にも身分の高い小姓組から介錯人を選びました。

そして切腹後、義士たちは泉岳寺に埋葬されたのですが、綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送り、幕府から切腹の場となり血で染まった庭を清めるようにと使者が訪れた際は「彼らは細川家の守り神である」として断ったそう。

綱利は家臣達にも庭を終世そのまま残せと命令し、客人には屋敷の名所として紹介したということなんです。
なんかこの殿様が張り切って目を輝かせているところが目に浮かぶようですね。

このまた後日談としては、1747年、綱利の2代後で義理の孫の31歳の宗孝が、江戸城で旗本板倉勝該に人違いで背後から襲われ即死という事件が起こりました。

殿中での刃傷や死は理由を問わず喧嘩両成敗だったので、細川家はお家取り潰し、おまけに跡継ぎがなかったので改易の危機だったのですが、居合わせた仙台藩主伊達宗村が、宗孝はまだ息があるとして細川屋敷に帰されて、翌日死亡したことなったために事なきを得、宗孝の弟の重賢(のちに名君になった)が末期養子になり、お家存続となったのでした。

これを赤穂義士を丁重に遇したのにこんな事件がとみるか、赤穂義士への好待遇がまわりまわってお家の危機を回避できたと考えるか微妙ですが、綱利が生きていればきっと後者と考えるに違いないと思うんですよね。


アリー
アリーです。歴史とオカルト好きです。

※画像はイメージです。

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