建国以来、ほとんど自国の国土に対する直接の攻撃を被った事のない軍事大国 アメリカ・・・・。
2001年9月11日、アメリカのニューヨークを始めとする複数の場所で同時多発的に発生したイスラム系テロ組織による所謂・911事件は、日本を含む西側諸国に対しても非常に大きな衝撃と恐怖をもたらした。殊にアメリカの富と繁栄の象徴とも言うべき超高層ビルのワールド・トレードセンタービル数棟が、ハイジャックされた旅客機の衝突によって倒壊する様は、構図的なインパクトも絶大でいつ見ても言葉を失う。
この一連の911事件による人的被害は死亡者2,9777名とされているが、アメリカ人に与えたトラウマは同国が自国内への攻撃を被った経験が他の西側諸国より薄い分、遥かに大きかったようにも感じられる。
アメリカは第一次世界大戦や第二次世界大戦にも無論参戦しているが、こうした世界規模の戦争の中でもほとんど自国への攻撃を受けておらず、内戦であった1861年から1865年の南北戦争が最大の惨禍となっている。
この南北戦争の犠牲者数は最大で90万人とも言われているが、そこまでの規模には到底及ばないとは言え、他でもない日本によって第二次世界大戦中に本土を攻撃された過去を持っている。
今回はそんなアメリカ本土が攻撃を受けた事績、主として第二次世界大戦中に日本が敢行した攻アメリカ本土の攻撃について、少し紐解いてみたいと思う。
エルウッド石油製油所への砲撃
1941年12月8日、ハワイのパールハーバーにあるアメリカ海軍太平洋艦隊への攻撃を成功させた大日本帝国海軍は、同作戦にも投入していた伊十五型潜水艦(巡潜乙型)を太平洋方面に展開し通商破壊活動に従事させた。
伊十五型潜水艦(巡潜乙型)は水上排水量2,198トン、水中排水量3,654トン、全長108.7メートル、全幅9.30メートルの規模で、水上であれば16ノットの巡航で14,000海里と言う長距離航行が可能な性能を持っていた。
同艦は最終的には20隻が建造されたがその中の1隻である伊17号が、1942年2月24日にアメリカ西海岸のカリフォルニア州のサンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を敢行、初のアメリカ本土攻撃となった。
この攻撃は浮上した伊17号が搭載する40口径14cm単装砲1門で合計17発の砲撃を行ったものだが、エルウッド石油製油所への被害自体は軽微だったとは言え、アメリカ本土が日本からの攻撃に晒された衝撃は大きかったと思われる。
大日本海軍としても実際の被害よりもアメリカ本土への砲撃を行ったと言う形こそが重要であり、アメリカとは真逆に友軍および日本国内での士気の高揚を持続させる事が、最大の狙いだったと見て良いだろう。
フォート・スティーブンス陸軍基地への砲撃
1942年6月21日には、伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の伊25号がやはり浮上して、オレゴン州のアストリア市に所在するフォート・スティーブンス陸軍基地への砲撃を敢行したが、この時は距離が遠すぎて命中弾はなかった。
この伊25号が行った砲撃はアメリカ本土の同国軍基地に対して行われた攻撃と言う観点からは、実に1810年代の米英戦争時以来、1世紀以上の時を経て加えられた歴史的なもので、基地のアメリカ兵は何らの対応も出来なかった。
ここでも大日本帝国海軍が敢行した攻撃はそこで損害を生じさせると言うよりも、日本側がアメリカ本土を攻撃する手段と意図を有すると示す事が最大の目的だったと言え、反撃等の対処が出来なったアメリカ軍上層部の焦燥感は募っただろう。
初の航空機にる爆撃の敢行
但しこのフォート・スティーブンス陸軍基地への伊25号による砲撃に先んじて、1942年4月にアメリカは陸軍のB-25爆撃機を航空母艦「ホーネット」に無理やり搭載して、日本の本土を爆撃するドーリットル空襲を行った。
「ホーネッ」から発艦した後に着艦は出来ない総数16機のB-25爆撃機は大半が中国大陸方面に着陸する計画で、爆撃の効果は軽微なものであったが、本土への攻撃を許した事は日本側でも屈辱と受け取られた。
その為、その後日本側ではフォート・スティーブンス陸軍基地への砲撃を行った伊25号を用いて、同艦が搭載する零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への意趣返しの爆撃を計画、1972年9月にそれを行わせた。
先ず9月9日の深夜、伊25号はオレゴン州の沖合の海上から零式小型水上偵察機を発進させ、カリフォルニア州のブルッキングスにほど近い森林へと76キロ焼夷弾2発を投下、アメリカ軍の迎撃を受けず小規模な火災を生じさせた。
続く9月19日の深夜にも同様の手法で零式小型水上偵察機はオレゴン州のオーフォードの周辺の森林に攻撃を行い、ここでも小規模な火災を引き起こし一応の成功を収めたが、以後はアメリカ側の警戒態勢の強化か同様の攻撃は中止された。
日本側が当初想定した通り、アメリカ側はこうした日本からの自国本土への攻撃に市民を含めて疑心暗鬼の状況に陥り、1942年2月25日にはロスアンゼルスで攻撃を受けたと誤認する騒ぎが起きるなど、心理的な効果は大きかった。
但し実際の軍事的な効果としてはこうした日本側のアメリカ本土攻撃は極めて薄く、そうした作戦にリソースを投入する事に日本側はメリットを見出せなくなり、9月19日を最後に再開される事はなくなった。
効果は薄いがアメリカの意表をついた風船爆弾
太平洋戦争の趨勢は、あまりにもその転換として有名な1942年6月のミッドウェー海戦の日本側の敗北によって、国力ひいては様々な兵器の生産力と工業力で桁違いの実力を持つアメリカが、その力を遺憾なく発揮していく。
日本はそうした状況に際し、正攻法ではアメリカ本土への攻撃を行使する事は厳しいと判断し、海軍ではなく陸軍が1933年頃より開発を進めてきた風船爆弾をその攻撃に用いる事に着手する。
風船爆弾は紙製の直径が凡そ10メートル程の大きさの気球に水素を充填し、15キログラムの爆弾と5キログラムの焼夷弾2発を搭載し、対流圏の上部の偏西風であるジェット気流を利用してアメリカ本土を攻撃した。
攻撃は1944年11月から翌1945年の春先にかけて実施され、千葉・茨木・福島の3ケ所の海岸から総数で約9,300発が放たれ、最大で約1割程がアラスカを始めとするアメリカ本土やカナダに辿り着いたとされる。
アメリカのオレゴン州では1945年5月に民間人が兵器と知らず風船爆弾の手を触れて6名が落命する事態が発生、人的被害を及ぼした唯一の例と記録されているが、他は軽微な火災や施設への被害のみに留まった。
既に太平洋戦争の勝敗は明らかではあったものの、アメリカ軍や政府は例え軽微な損害とは言え、自国内のパニックや士気の低下を懸念して事実の公表を伏せた為、結果的に日本側も効果が無いと判断、攻撃を中止した。
意外な歓待を受けたアメリカ本土への爆撃を敢行した日本兵
1942年9月に伊25号から発進し、アメリカ本土のオレゴン州の沖合の海上から零式小型水上偵察機にて森林への爆撃を行った藤田信雄飛曹長は、敗戦から17年後の1962年に時の日本政府にアメリカ側からの要望だとして渡米を命じられる。
藤田信雄飛曹長自身は、アメリカ本土への唯一の爆撃を行った自分が戦争犯罪人として糾弾される事を覚悟してアメリカへと赴いたが、ブルッキングズ市はその意に反して敵ながらその敢闘を称える歓待で迎えた。
アメリカの底流にあるメンタリティへの疑問
こうした逸話は敵ながら困難な任務を遂行した人物に対しても敬意を払い、フェアに接する謂わばヤンキー・スピリットを体現するアメリカの行いと見る事も出来き、今のメジャーリーグ等にも通じるものを感じさせる。
しかし個人的には冒頭の911事件の発生後、イラクがその首謀者たるテロ組織の温床だと決めつけ、実際には存在しなかった大量破壊兵器の保有を口実に政権転覆まで行ったアメリカを手放しでは賞賛しかねるもの事実だ。
何よりアメリカは世界初の原子爆弾を自ら投下した広島の爆心地に対し、その地をかつてはグラウンド・セロと呼んでいたが、911事件後にはその呼び名は倒壊したニューヨークのワールド・トレードセンタービルの跡地に流用するように変化させている。
※画像はイメージです。
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