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安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)って、知ってます?

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安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、戦国時代から安土桃山時代の臨済宗の僧で、一発屋、一発芸というほどじゃないですが、この人はあることで歴史に名を残したんです。
それをご紹介しますね。

目次

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) とは?

この人、あんまり知られていないのですが、戦国時代に必ず登場します。
生まれは天文8年(1539年)頃というので、豊臣秀吉の2歳下で同世代です。
それに、安芸武田氏の一族の出身で、立派な武家貴族なんですが、父の佐東銀山城(さとうかなやまじょう)が毛利元就に攻められて落城しました。

2歳だった恵瓊は、家臣に守られてお寺に入って助かったのです。
その後は、臨済宗の僧としてがんばって勉強し、京都の東福寺まで行き高僧に仕えたのですが、この高僧の師匠が「外交僧」だったので、恵瓊もその道に入ったということなんです。

外交僧とは

外交僧とは何かというと、武将の合戦の時について行き、和議やなにかで相手陣との交渉を任される役目をしていたお坊さんなんだとか。昔は身分制度が厳しかったのですが、お坊さんや学者、医者は方外(ほうがい)といわれて、生まれた身分にかかわらず実力で出世できたのです。

それとやっぱり、合戦相手の武将の家来が交渉するよりも、教養があって頭がいいし書類も書けるというので、交渉事を任された、それが外交僧だと思います。
恵瓊は、師匠の関係で毛利家の外交僧を務めていましたが、名門の生家が毛利元就に攻められて滅ぼされたのになんとも思わなかったのでしょうか、これが気になるところです。

月岡芳年, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

予言者?

それで恵瓊が有名なのは、信長評と秀吉評が予言みたいに的中した手紙が残っていることからです。
毛利元就の息子吉川元春の家臣に宛てた手紙に、「信長は3年、5年は持つだろう、来年あたり公家になるかもしれないが、高ころびにあおのけに転ぶだろう。藤吉郎はなかなかの人物です」と書いてるんですよ。

これが、なんと、本能寺の変の10年前に書かれたというからびっくりです。
恵瓊は、毛利家が15代足利将軍義昭のバックにいたこともあって、京都で信長との交渉もやって、実際に信長や秀吉に会っているのですが、人物観察が鋭かったまたは、予言能力があったとも思えるほどですよね。

実際、本能寺の変が起こったとき、秀吉は備中高松城水責めの最中で毛利方と対戦していましたが、信長の詩を隠してバタバタと和議を行い、急いで姫路城に帰るとき、やっと毛利方に本能寺の変の知らせが来たのですね。
しかし退却する秀吉軍を追って討とうとせず、毛利軍の旗まで貸して秀吉に恩を売ろうとしたのは、恵瓊から出たアイデアではとさえ言われております。

大名になった?

もちろん、秀吉が明智を倒した後、恵瓊は秀吉に重用されて大名になったのです。
ただ、毛利家に仕えながら秀吉にも仕えて何万石ももらったのか、色々な説があるようですが、毛利家の小早川隆景も秀吉に気に入られて大名になっていますから、同じような待遇だったのかもです。
恵瓊は秀吉の九州征伐では、参謀、謀将として活躍し、一揆との交渉から敵将を謀殺まで調略面で功績をあげ、朝鮮征伐にも参加しています。が、秀吉没後、関ヶ原合戦では西軍となり、毛利輝元を総大将に担ぎ出すのに一役買ったのですが、あえなく敗戦。いったんは逃げたものの吉川広家に言われて出頭し、石田三成、小西行長らとともに捕らえられて六条河原で打ち首となりました。

最後は

最後はちょっと残念ですが、飛ぶ鳥も落とす勢いだったはずの信長の全盛時に、最期を見通した予言をしたということだけでもすごいではないですかね。

featured image:月岡芳年, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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