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アームストロング砲の謎

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薩摩藩が好きで勇猛果敢な薩摩隼人の話が好きなんですが、ちょっと気になることがあるのでご紹介しますね。

目次

アームストロング砲

アームストロング砲は、イギリスのウィリアム・アームストロングがクリミア戦争後の1854年に発明した大砲で、初めて大規模な実用化となった後装式のライフル砲です。
それまでの大砲は、爆薬で鉄の球を飛ばすものでしたが、アームストロング砲は砲弾が爆発するようになったわけです。
歴史ファンには、幕末の上野の彰義隊の戦いで使われたことで有名で、司馬遼太郎の短編にもなっています。
このアームストロング砲は、当時の最先端の兵器としてイギリス海軍御用達になり、薩英戦争で初めて実戦で使われました。

薩英戦争は、1863年に生麦でイギリス人商人が島津久光の大名行列を横切って無礼討ちにあった事件をイギリス公使館が抗議して幕府から賠償金をゲット。
さらに薩摩藩からも賠償金をもぎとろうとイギリスの艦船4隻で砲艦外交に向かったときに起きました。
調べてみると薩英戦争という名前になっていますが、イギリス側には最初から戦争するつもりはなかったようです。

その発端

薩摩藩の砲台からの攻撃が発端で台風の暴風雨の最中だったこと、薩摩藩は市街地にイギリスのロケット弾が着弾して10分の一が焼失したが、市民を避難させていたので守備兵3名が死亡、5名が負傷しただけだとか、台場の大砲8門が破壊されたのに薩摩藩士わずか1人が死亡し守備兵6人が負傷しただけという、戦死者数が異様に少ないのを疑問視されていることなどが判明。

そのうえに、なんとこの薩英戦争後、イギリス海軍はアームストロング砲は暴発や不発弾が多いとして採用をキャンセルされています。
そして薩摩藩の大砲からイギリス艦船のユーライアラス号の甲板に直撃弾を受けて艦長含め31名死傷者が出たとされるのも、薩摩の砲撃ではなく自爆したのではという疑いもあるのだそうです。

最近、この薩英戦争で薩摩藩が異様に強かったために、イギリスが薩摩にすり寄った結果、明治維新が薩摩藩主導で行われたような解釈がされています。

その後

その後、薩摩はイギリスへ留学生を送ったり、イギリス外交官らと親密になって情報を得たりして政治的にも薩長同盟を結んで明治維新をリードしたのは確かですが、薩英戦争での薩摩藩士の勇猛さが戦死者の少なさから来たのならば間違いでしょう。

砲台8門破壊されれば、100人は戦死しているはずで市街地はほとんど藩士が住んでいるのに、地上戦もあった可能性があるのに全員を避難させたはずがないんですよね。
それにアームストロング砲が画期的な大砲で、佐賀藩が独自に製造に成功したという話もあやしくなってきたなど、歴史の謎がまた一段と深まった次第でございます。

※画像はイメージです。

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