か弱いとばかり思われていた一人の女性が、周辺国をあっと驚かせる外交革命により仇敵プロイセンのフリードリヒ大王を追い詰めていく物語です。
1740年、時のオーストリア皇帝であるカール6世が死去すると周辺国が皇女マリア=テレジアの皇位継承に異を唱えます。特に、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)は猛反対しました。彼の目的はこの機に資源の豊富なシュレジエン地方を併合することでした。
当時23歳のマリア・テレジアは大胆な手に打って出ます。彼女は王位継承権こそ持っていましたが歴史的に対立関係があった隣国のハンガリーに乗り込み援軍を要請します。
赤子を抱いた彼女はハンガリー女王に即位するとハンガリー議会で必死の援軍要請を行います。若く美しい女王の熱意はハンガリー貴族たちを動かしました。
強力な援軍を得た彼女ははフリードリヒの攻勢に必死に耐えます。しかし、準備不足もありオーストリア継承戦争に敗北してしまいました。帝位の継承こそ認められたものの、シュレジエン地方はプロイセン領となってしまいました。仇敵となったフリードリヒ大王を倒すため、彼女は二つのことに手を付けます。
一つは国内制度の改革です。内政面ではプロイセンの国歌制度を取り入れました。その結果、税収が増加し軍備増強の財源を作ることができました。
軍事面では士官学校を創設し軍事力の強化に努めました。
もう一つは外交関係の見直しです。
ロシアに対しては女帝エリザヴェータと関係を改善しました。こうしてフリードリヒのプロイセンを「3枚のペチコート」で包囲しました。ドイツの地政学的弱点はヨーロッパの中央に位置するため東西両面と同時に戦争になると非常に苦しくなるということです。
これは、2つの世界大戦で証明済みです。マリア・テレジアは150年以上前にこれを見通していたことになります。
こうして始まった7年戦争は終始オーストリアの有利に進みます。
これにより、両面作戦から解放されたプロイセンはかろうじて戦線を立て直します。
結局、戦いは膠着状態に陥り戦争は引き分けに終わりました。シュレジエンの脱会はかなわなかったのです。
ただ、このマリア・テレジアの戦略は外交革命とよばれ、外交史の中で特筆すべきものとして語られています。
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