「甦る翼 F-2B 津波被災からの復活」を読んだ

まさか、信じられない、こんなことが起こるなんて・・・と誰もが思ったあの日の出来事。
平成23年3月11日午後2時46分、東日本大震災。

宮城県東松島市の航空自衛隊松島基地は予想をはるかに超える津波が到達、第21飛行隊の18機のF-2Bを含むすべての航空機が水没してしまいました。

F-2Bとは、従来は単座のF-2を複座にした操縦教育仕様の機体であり、この第21飛行隊で戦闘機パイロットの操縦課程に使用されていたものであり、そのほとんどが松島基地に配備され、この時被害にあったのです。

不幸中の幸いは第11飛行隊(ブルーインパルス)の機体が、九州新幹線開通イベントの祝賀フライトのために福岡県に滞在していたことくらいなもので(基地に残された予備機と施設・資材は全て水没)、基地の機能は浸水によって失われ、長い苦闘の日々に突入したのです。

本作の著者 小峯隆生氏は東海大学 工学部 航空宇宙工学科で航空機設計を学び、航空技術者を目指していたという経歴のライターです。
その彼が震災からわずか一月後の松島基地を取材で訪れ、そこで格納庫に収容されている被災したF-2B戦闘機の惨状を目の当たりにしたのです。

格納庫内部には携帯電話・ICレコーダーはもとより記録媒体の持ち込みは厳禁、身一つで入ったそこはまるで『遺体安置所』のようであった、と述懐されていました。
泥にまみれ、水圧でひしゃげたり折れたり、その損傷は内部にもおよび、エアーインテイクからエンジンノズルまで波に貫かれており、その後部からは枯れ草が垂れ下がっていた、というのです。

彼はその機体に触れ、いみじくも『飛行機に宿る魂が失われていた』と述べています。
「死んだ人間は生き返ることはないが、もしかしたら、F-2Bは蘇ることができるかもしれない」
そんな荒唐無稽な“夢”が現実になるまでのプロセスを、本書では追っているのです。

発災当時

あの日の松島基地は、空模様が怪しかったため、天候偵察のT-4が飛んだものの、気象隊からは『飛行訓練の基準に満たない』という報告を受け、第4航空団 第21飛行隊 浜隊長が訓練飛行中止の命令を下していました。
そして14時46分の地震発生時は既にエンジンカットされていた状態で駐機場にありました。

機付きの整備員たちは、駐機場のコンクリートの上で車輪止めが吹っ飛び、自分たちを追うように飛行機たちが動いてしまっていた、と述べています。

揺れが収まった時、次は津波が来る可能性が高いとして、当時の基地司令であった杉山政樹空将補が下した英断により、基地内にいた1000人に及ぶ自衛官や職員、来訪者には人的被害が一切出ていなかった、というのです。

曰く『何か出来ることを一つしたら屋上に退避』。
迫りくる津波の到達時間を鑑みて、航空機に関してはすべてを諦め、人間だけの避難を優先させたというのです。

本書以外のドキュメンタリーでも『何か一つ手に持てる装備をもって退避』というルールもあったようで、そのおかげで救難隊などは水が引いてすぐにドライスーツやボートなどを使って被災者支援に身一つで繰り出していった、という記録もありました。

杉山司令はもともとF-4ファントムのパイロットでした。
その長年にわたる経験から出していた指示が、この発災時に多くの人材を救ったのは間違いありません。
しかし、目の前で黒い渦に呑まれ押し流された航空機を屋上から見ることになった彼らの無念は計り知れないものがあります。

泥まみれで、草や枝が絡みついたような哀れな状態だったF-2Bは『魂が感じられなかった』と表現する機付長(その機体の責任者)もいました。

杉山司令は、発災翌日にはその泥まみれで擱座したF-2Bを格納庫の前に並べました。
人力で動かせる機体を滑走路からどけて、輸送機の受け入れ態勢を整えること、そして人工衛星などによる他国・他勢力からの偵察に対して『航空自衛隊・松島基地は健在である』というアピールのために、それを行った、というのです。
そこにあったのは『国防の意義』。
杉山司令の、“基地を預かるもの”だからこその着眼点と行動だったのです。

松島基地は、同様に壊滅した仙台空港を復旧させるミッションで飛来した米軍の輸送機を受け入れたり、全国から送られてくる被災地向けの物資・人員のターミナルになったのです。

発災直後の3月13日から7月末までに1575ソーティ(のべ出動回数)の輸送機が出動し、被災地の『復旧』に従事することとなったのです。
その任務は杉山司令をはじめとして陸海空自衛隊のマンパワーをフル稼働するものだったのです。

その機体はどうなってしまうのか

その間、泥水にまみれたF-2Bたちは格納庫の一角に収められ、手を付けられないままに時間が流れていました。
機付長がそのパネルを開くと「最後の血を吐き出すように」泥水が流れ出た、と言います。
海水ですから、精密機器である戦闘機はもうダメだ、と感じたのだと。

しかし、その機体をその後どうするかという意志決定の権限は整備員にもパイロットにもありません。
その「思い入れ」だけではどうしようもない、と言う現実がありました。

杉山司令は、しかしそれらの状況を傍観しているだけではなく、三菱重工と川崎重工に対して「まず何をすればいいのか」と聞き、その指示に従ってその時にできる最大限の処理を行なった、というのです。

いわく・・・

・エンジンを外して刷毛で砂と塩分を取る
・水をかけてはいけない

残されたすべての機体にそうしたプロの意見に従った処置を施して、彼らは動ける時を待ったのだそうです。

被災者の支援と町の復興、そして教育が頓挫してしまった学生パイロットを一月後に三沢基地で受け入れてもらい、少しずつ動き出していました。
人員の養成に空白期間があってはいけない、という防衛の指針は、非常時であってもおざなりにならず。
そんな複合的な部分までを視野に入れて、杉山司令は奮闘していたのです。

当時、F-2の生産ラインは平成23年度3月末で閉じるはずでした。
まさに、それは震災の発災時期に重なります。
平成19年度、一機が130億円で納入されたF-2でしたから、それ以降必要な数を調達するのが難しいという現実が迫ります。

戦闘機パイロットの教育には不可欠なF-2Bをいかに再度そろえるか。
そのためには水没した機体を復活させるしかない。

全てがダメだとしても、使えるものは使わなければ___そうした気持ちが固まり、動き出したのは防衛省航空幕僚監部(空幕)と三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所(名航)、IHI(旧・石川島播磨重工業)瑞穂工場でした。

チーム松島

官民合同チームとなったF-2B復活業務を担う“チーム松島”を具体的に動かすために、陸自出身の佐藤正久議員らが動き、予算獲得のために奔走し始めました。
“先立つもの”がなければ、何も回って行かないからです。
三菱重工業の小牧南工場では、閉鎖する予定の製造ラインを残したうえで陸路・海路で搬送した18機の被災機体を預かり、詳細な見分、そして『使えるか?!』どうかという判定がなされていったのです。

『予想していたほどひどくない、これならいけるのではないか』という方向に向かうまでに一年の歳月を要し、全ての機体をバラバラにして確認していった、というその労力は途方もないものだったはずです。

しかし、巨費を投じたとしてもなんとか修復し、パイロット養成の空白期間を少しでも減らそうという努力は少しずつ実を結び、平成23年度補正予算で6機を修復することが決定し、それでも足りない機材と時間を埋めるように、米空軍でのF-16過程での委託教育を受け入れてもらうことになりました。
チーム松島はさまざまな協力体制を得て、震災による被害をいかに取り戻すか、ということに奔走していったのです。

みどころ

まるで生き物のようだと、航空機を見ていて、長年思っていました。
金属の塊の戦闘機は、それを飛ばす人、整備する人、それぞれの熱い思いを載せて空を飛ぶ、疑似生命体であり、人との運命共同体のような、そんな存在だと。

本編を読むと『魂』という言葉でそれを表現している人がとても多いことに気づくでしょう。
あの日、現場でなすすべもなく泥水に呑まれるF-2Bを見た人たちの生々しい体験。
そこから再起していく松島基地と、人々と、それから6機のF-2Bたち。

18機あったものが三分の一に減りはしたものの、見事に復活を果たし、今もパイロット養成の現場で活躍しているのです。
労力を含むコストパフォーマンスの算出では新しいものを作った方が…という考え方の方が主流でしょう。
車が水没したらそれをレストアするのは時間と労力の無駄だから、買い替える、というのが一般的には『当たり前』だからです。

しかし、一機130億で納入された航空機です。
それが18機。
しかも製造はほぼ終わっている。

新規調達するとなると、それはまた途方もない防衛予算を使うことになるのです。
そのせめぎあいのなかで、技術者たちは真摯に現実と向き合っていきました。
『できない』ではなく『出来る方法を考えよう』と言う方向に変わっていくその空気と濃やかな気遣い気配りは、日本人ならではだと感じました。

結果的に、ギリギリのところで6機を修復することが決定し、一機当たり約70億円、合計約440億円という費用が計上され、約360億円の削減となった、とのこと。
それは、企業側の努力によるところが大きく、使えるパーツを一つひとつ見極め、無駄を排除した結果だというのです。

そうして再度命を吹き込まれたF-2Bは、最終的に13機まで増え、その修復初号機が納入されたのは震災から4年後の2015年4月21日。
三菱重工小牧南工場で大々的なセレモニーが行われ、その日、原隊である第21飛行隊が当時展開していた青森県三沢基地にフェリーされたのです。

送り出した側の機付長らは、まるでわが子を迎えるかのような心持ちでその初号機(106=マルロク)を見ていました。
その機体は修復されたものであったにもかかわらず、運用していく上で現れる癖や不具合は不思議と元のままだったと言います。
やはり、それらには『魂』が宿っているのだ、と著者は述べています。

訓練のために渡米した操縦課程の学生がアメリカの砂漠に並べられた用廃機の群れを見て『アメリカ人にはF-2Bの修復なんて理解できないでしょうね』と言いました。
日本人が作った飛行機を、その技術を、大切に守って使っていく。
当たり前のことのようですが、あの未曽有の災害で壊滅したかにみえた部隊が、数年を経て蘇っていくそのプロセスは、航空機ファンだけでなく、多くの方の胸を打つと信じます。

やはり、飛行機はただの機械じゃない。
きっと魂がこもってる。
そんなことを改めて思った一冊でした。

(C) 甦る翼 F-2B 津波被災からの復活 小峯 隆生 (著)/柿谷 哲也 (写真) 並木書房

最新情報をチェックしよう!