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「中継されなかったバグダッド」そこに書かれた真実のイラク戦争。

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その女性が亡くなった、というニュースは衝撃でした。
日本人の彼女が、シリアで、政府軍の銃撃を受けて逝去・・・それは2012年の8月のことでした。

そうか、あの人はまだ45歳だったのだ、と改めてその年齢を思ってしまいます。

山本美香さん。そして、この本を書いたのはその約9年前。世界はめまぐるしく移り変わり、当時30代半ばの彼女はイラクのバグダッドにいたのです。サダム・フセインは存命しており、その頃のバグダッドは戦時下にありました。そこで見たもの、聞いたもの、美香さんが書き留めてきたバグダッドの光景がここに残されています。

目次

イラクへの攻撃の予兆

同時多発テロの一年後、ブッシュ大統領が発言しました。
「次はイラクだ」

混乱のアフガニスタンでの取材が続く中で山本さんはイラクに入国する方法を模索していました。赤坂のイラク大使館を訪ねても、正攻法ではジャーナリストにビザが下りる見込みは殆どなかったのです。

彼女が掛けたのは、イラン大使館で三週間のビザを取り、そこからイラクに入国するという方法です。しかしその思惑は大きく外れ、戦争の兆しは近づいてくる一方でストレートに入国できる見込みは立たず、彼女は見切り発車でヨルダンへと発ち、そこでプレスビザを得たのです。

そして3月17日、紆余曲折を経てバグダッドに到着。イラクの情報局にいたのは日本のテレビのスタッフとして滞在していた“ボス”の佐藤和孝氏。
そしてイラク人スタッフと監視役を兼ねた通訳ら5人。ひと月にわたり、彼らは運命共同体となったのです。

イラク危機から、イラク戦争へ

山本さんがバグダッドに入った翌日、ブッシュ大統領の最後通告がありました。フセイン大統領とその息子は、48時間以内に亡命か、投降せよ、という演説を行ったのです。正確な情報が下りないままに、情報局にオフィスを構えた各国のマスコミは退避。山本さんたちもプレスセンターを移設したパレスチナホテルに移動しました。

そして間もなく米英軍によるイラク攻撃が開始。バグダッドの市街にも空襲警報が鳴り始めました。武力行使の最後通告の期限切れから一時間半、本当に、戦争が始まってしまったのです。目の前のビルにも爆弾が落ちるなか、駆けつけてくれたイラク人スタッフは、空爆にもなれており「これくらいはどうってことない」というケロッとした反応を見せていました。

彼らは言うのです。
「アラーの神が守ってくださる」
イラクの市民は“戦争慣れ”しているかのようで、市場ではシリアの男性が名物の石鹸を売り、必要なものも不便なく供給されているのです。

とはいえ、イラクの三月につきものの砂嵐が吹くころになると、戦争に加えてその影響もあり、街が荒廃してきました。空爆や停電、そして断水。彼女はそこで思わぬ苦労をすることになるのです。

戦時下での洗濯

山本さんがイラクに持ち込んだ衣類はごくわずか。それをなんとか着まわしていたのですが、洗濯が困難な状況になっていました。
砂埃で汚れることもありましたが、ホテルのランドリーも、街の洗濯屋も機能しておらず、水の確保にすら苦労するなかでは洗濯は困難です。

イスラム圏では男性の視線をことさらに気にする必要があり、目に見えない苦労が絶えません。
自分の家での洗濯を申し出てくれた現地スタッフもいましたが、その家でも家人の女性が水くみをしているような状況で頼むのは気が引けます。

しかし、そんな中で彼女が見聞きしたイラクの一般家庭の様子は興味深いものがありました。女性たちの生の姿を街で見かけることが少ないこと、そして取材の規制が厳しく、自由に街を取材することができない中で接触したイラク人スタッフの家庭の風景は新鮮なものであったようです。

取材が出来ない・・・

戦闘が激化する中で、取材の規制はますます厳しくなり、行きたいところにも自由に行けない日々が始まりました。一般市民が外国人ジャーナリストと接触すること自体、望ましくないとされていたのです。

やっと“プレスツアー”が始まったら、それは誤爆された市民の住まいを見せるといったものでした。バグダッドだけでなく、その周辺にも空爆が及び、市民は避難すらままならない中で、死者・負傷者は容赦なく増えていくのです。

イスラムの休日・金曜日の夕方に市場に落ちた一発のミサイルで50名が亡くなったその現場を見て、山本さんは過去に経験してきたいくつもの紛争の爪痕を思い出していました。

そして、イラク国民の中に新たに生まれていく憎悪の形を確かに感じていたのです。
そうして苦労の末に集めた情報を、速やかに日本に送りたい、と考えても、彼女らには自前の中継システムがありません。

現地に展開していた技術会社が頼りです。

当時日本テレビで放送されていた「今日の出来事」という夜のニュース番組に間に合わせるために、他国のチームと伝送の順番、そして回線を使える時間を奪い合う日々があったのです。

その頃、バグダッドに残っていた各国の報道関係者は技術者含めて300人以上。トラブルを乗り越えるうちに顔見知りは増えていき、連帯感に似た感情が生まれていったのだそうです。

陥落寸前のバグダッド

侵攻している米英軍が苦戦していた頃、それでも空爆は続き、市民生活は大きな打撃を受けていました。山本さんらが滞在していたパレスチナホテルでも食糧事情は悪化し、まともな食事を望めない状況になってきたのです。提供される料理が乏しくなりながらも、食べられるだけマシ、と思う日々。

しかし次第に空腹を感じなくなっていくといいます。
喉は乾くけど、お腹はすかない・・・危険回避に感覚が研ぎ澄まされていったのでしょう。

周囲のイラク人スタッフが、市井の人々の戦時下の暮らしをつぶさに教えてくれました。
ガラスが飛散しないよう、窓を開けて眠るとか。思春期の男の子たちですら空爆の音に怯えて母親から離れられなくなるとか。
狙われるのは橋や政府の庁舎などですが、その周囲にも人々は暮らしているのです。

ホテルにとどまり情報を伝え続けているジャーナリストたちも、当時の伝達手段である衛星携帯電話のチェックや理不尽な国外退去などの処分に怯える日々でした。山本さんらも、まさにホテルのベランダからその衛星携帯電話をこっそり使って東京のテレビ局に情報を送っていたのです。

化学兵器の噂が流れ、空爆が続く中で、山本さんたち日本人のジャーナリストたちも秘密警察のガサ入れ、検閲、そして莫大な取材の経費に頭を悩まされる日々を過ごしていました。

ジャーナリストが狙われた日

それは2003年の4月8日、現地時間の正午前のことです。
山本さんたちを始めとして、当時世界中のメディアの多くが滞在していたパレスチナホテルに、共和国橋に展開した米英軍の戦車の砲塔が向けられるという事態がありました。

その頃、制空権はすでにイラク側の手を離れており、情勢は押される一方だったのです。炸裂音がしたその瞬間も、まさか自分たちがいる建物が砲撃されたとは思わなかった、と山本さんは述懐しています。

砲撃された場所は隣室、ロイター通信の記者が使っていた部屋でした。顔見知りの記者たちが血まみれになり、窓際にいたカメラマンは腹から内臓が出ていてもう手の施しようがない状態だったというのです。

後に、この砲撃はホテルのロビーから銃撃されたことに対する反撃であったという米軍側の釈明がありましたが。その現場では、救助しようとする者と、撮影をしようとする記者たちが混在しており、山本さんは「男手が足りない。わかるけど今は助けて」と思いながら、撮影を放棄し、倒れている人たちに向かっていったのです。

その時間、日本では夕方に放送される日本テレビの“ニュースプラス1”の生中継がありました。
彼女の“ボス”である佐藤和孝氏がそのカメラの前に立っていました。

「私たちは覚悟している。でも死にに来たんじゃない。残念です…」
血の付いたズボンを履いて、彼は目にした一部始終を日本に伝えていたのです。

その時には、まさか、米英軍が自分たちを攻撃してくるとは予想もしていなかったというジャーナリストたち。しかし、部屋に戻った山本さんは、もしかしたら攻撃されたのは自分だったかもしれない、と思い至ったのです。

この攻撃の前には中東の二局、アルジャジーラとアブダビテレビの支局が攻撃を受けています。メディアが立て続けに狙われていた___これは、武力をもって言論を封殺しようとする行為だったのです。
米軍は“従軍取材”というシステムをメディアに提供しているのだと主張しました。

アメリカの提供し、管理していた従軍取材以外のジャーナリスト活動を認めない、攻撃対象になっても仕方がない、というのです。
パレスチナホテルの惨劇は、そうしたアメリカの姿勢と、戦争の醜さを浮かび上がらせました。

フセイン政権崩壊

パレスチナホテルにはイラク情報省の役人が常駐していましたが、気づくと彼らの姿は無くなっていました。米英軍が侵攻してくれば、自身が危ないと判断した彼らは姿を隠してしまったのです。

その頃には既に瓦解したと思われる政府の施設に市民が押し寄せ、略奪まで始まっていました。
砲撃の翌日の夕方、パレスチナホテルの前には進軍してきた戦車・装甲車が大挙して押し寄せてきました。

報道陣は、米英軍がバグダッドを制圧したら、こうなるだろうということを予想していました。ほどなく、その場所に建ったフセイン像を引き倒し、勝利の“セレモニー”が行われたのです。

フセイン政権は打倒され、“国”が無くなったイラクの市民は喜ぶ者もあれば、哀しむ者もあり。
混乱のなかで、山本さんはその図式の歪さをつぶさに見ていたのです。

余波

砲撃の衝撃がまだ残るパレスチナホテルには、米軍兵士の姿がありました。
彼らはその建物が米軍の攻撃対象になったとは知らなかったのです。それどころか、その50名を超える兵士らが小銃を肩から下げながら、このホテルに宿泊する、というではありませんか。

ジャーナリストたちの中には、彼らを問い詰めるものもありましたが、その殆どは事実を知らないままにそこにいたのです。
バグダッドは無政府状態になり、治安が悪化する中で山本さんらは空爆の爪痕を取材していました。

フセイン政権が打倒された直後は緊張がゆるんだかに見えた米兵たちは、今度は市民たちにその監視の目を向け始め、一触即発の空気が流れます。
外国人ジャーナリストに対してもガサ入れ、締め付けが強化されていったのです。

その頃、まだフセイン大統領は行方がしれないままでした。
イラク人たちはその次を担う指導者を「自分たちで選びたい」と願っていたのです。

これから、新しいイラクが始まる___それは希望に満ちた平和な世界か、それとも大義なき戦争のつけがまわってくるのか。
山本さんが見たバグダッドの青い空の下には、人々の暮らしが確かにあったのです。

見どころ

この本が上梓されたのが、ホテル砲撃事件の記憶が生々しい2003年の8月のことでした。
今でもご活躍されている山本さんのパートナー・佐藤和孝さんが、ほぼリアルタイムで情報を伝えていたイラクの情勢のニュースはセンセーショナルなものが多く、当時よく見ていたものです。

その彼が息を切らして激白していた砲撃事件の直後のリポートを、私は見ていました。
その日の深夜のニュースでもそれは取り上げられていましたが、佐藤氏の激白と、現場を見て慟哭する彼女の姿がそこにはあったのです。

それを見ていて“山本美香”と言う人に興味を持ちました。
こんな現場に身を置く凄い人がいる、と思ったのです。

彼女が書いたこの本の中には、取材を通して見聞きした生のバグダッドの姿があります。洗濯の苦労や、食べ物の話など、女性ならではの視点で書かれたこと。それから、一緒に働いたイラク人スタッフを通して見たごく普通のイスラムの人々の暮らし。

彼女の柔らかな視線でみつめたそこには、戦時下とはいえ、逞しく暮らす人々の姿がありました。

まとめ

この本から9年。
山本美香さんはシリアにいました。

バグダッドで取材していた当時はボスと呼んでいた佐藤和孝氏は私生活上でもパートナーとなっていたのです。二人でシリア内戦の取材に向かい、アレッポという古い都市で銃撃を受け、山本さんは首の銃創により死亡。
精力的に仕事をしていたさなかのことです。

その銃撃事件の真相は内戦のなかで詳らかにされることは無く、今はもう、彼女はこの世に存在していません。

イラクの前にはアフガニスタン。
日本国内にいた時にも、雲仙普賢岳など、過酷な状況にあった場所を常に飛び回り、取材を積み重ねてきた山本さん。
今ご存命であったなら、いったいどこに向かっていたかな、と思うことがあります。

彼女が、自身の言葉で綴ったあの日のバグダッド。
今はどんな街になっているでしょうか。

山本さんが亡くなった年に、彼女の遺志を継ぐべく、山本美香記念財団が設立されました。最も近いところで彼女を見てきた佐藤和孝氏が、次世代への啓発や支援を志しています。彼女が生きた軌跡は、この本からさらに高みへとつながっているのです。

中継されなかったバグダッド(山本美香 著)

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