幕末事件ファイル!孝明天皇暗殺は隠蔽された?

幕末の動乱期をたどっていくと、ただごとではないアクシデントがタイミングよく起きていることに気づかされる。通史や通説に対する疑惑が長年指摘されているにもかかわらず、いまだに真相が究明されていない事件もある。
戦前までは孝明天皇崩御の謎に切り込むことはタブーとされていたようだ。やはり少しきな臭さを感じるので、首を突っ込んでみることにする。

将軍に続く天皇の死は偶然か?

■ 孝明天皇(こうめいてんのう)
人見 一太郎/(Hitomi, Ichitaro, 1865-1924) [Public domain], via Wikimedia Commons
孝明天皇は明治天皇の父であり、慶応2年(1867)12月25日、35歳で崩御した。死因は天然痘とされている。
仲良の良いの義弟・14代将軍家茂の急逝から半年後のことだった。

二人の死は史実として確定ずみ。これだけでも異常事態なのに、皇位継承者だった睦仁親王の蒙去までも指摘されているという。明治天皇替え玉説というやつですね。仮に第三の死も事実だとすれば、わずか1年の間に、10代、20代、30代の一国のトップ3が次々と他界したことになる。しかも絶好のタイミングで。

「偶然です。おそろしい偶然がいくつも重なったのです」という金田一耕助のセリフを思いだすのはわたしだけだろうか。孝明天皇は朝廷と幕府の関係強化をはかり、公武合体運動を推し進めていた。長州藩に不快感を抱いていたことは宮内省編纂の公式記録『孝明天皇記』にも記されている。

天皇を排除することで笑いが止まらない人間は誰か。当然のように、突然の崩御は佐幕派の勢いをそぎ、倒幕派の復活を招くターニングポイントになった。時局は朝廷vs.幕府の仁義なき戦いへと舵を切っていく。

くすぶり続ける孝明天皇毒殺説

記録によれば、天然痘を患った孝明天皇は順調に回復の兆しをみせていたという。ところがにわかに容態が急変し、七転八倒の苦しみの末に壮絶な最期をとげた。『中山忠能日記』には「御九穴より御出血」とあり、痛ましい臨終の様子が記されている。

歴史家のねずまさし氏は、病死ではなく毒殺と推察。天皇の身辺には岩倉具視の近親者堀河紀子が女官として仕えており、薬に毒物が盛られた可能性を指摘した。治療にあたった医師の一人、伊良子光順の曽孫の伊良子光孝氏は、光順の日記を発表。日記には毒殺を疑う記述があるそうだ。光孝氏自身も医師であり、その立場から天皇の末期症状を検証した結果、ヒ素系毒物による急性中毒と結論づけた。

もし死因が天然痘であるならば、ほぼ全快した状態からの容態の激変や、臨終に至る異常な症状を説明できないという。また、日本に駐在した外交官アーネスト・サトウは、後年、事情に通じた日本人から天皇は毒殺されたことを明かされたと自書で暴露している。残念ながら、その日本人の名は明記されていない。

伊藤博文暗殺の実行犯・安重根の証言

岩倉具視と並んで、天皇暗殺の黒幕または実行犯として有力視されているのが初代総理大臣伊藤博文。1909年、伊藤博文は満州のハルビン駅でテロリストに暗殺された。狙撃犯の安重根が暗殺理由のひとつとして供述した内容が穏やかではない。

「今を去る42年前、現日本皇帝の御父君に当らせらるる御方を伊藤さんが失いました」。この証言がどこまで信憑性に足るものかは不明だが、無視することもできないように思われる。伊藤博文には暗殺や焼き討ちの実行役として暗躍した過去がある。初代総理大臣就任もどこか違和感を覚える。

そこにはいわゆる大人の事情があったのではないか。孝明天皇病死説と毒殺説の論争は現在も決着がついていない。この先、新たな発見はあるのだろうか。いまだに暗殺疑惑がくすぶり続けているということは、孝明天皇が幕末動乱期のキーパーソンであったことの証明ともいえるだろう。


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※画像はイメージです。

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