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松尾芭蕉は忍者だった?

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松尾芭蕉は俳聖と呼ばれていて、いまや海外でも広まっている誰知らぬ者のない俳句の先駆者ですが、この芭蕉忍者説についてご紹介しますね。

目次

松尾芭蕉の出生

松尾芭蕉、実は伊賀の国の生まれなんです。
一説には、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫といわれますが、芭蕉の生家松尾家は名字帯刀を許された農民、戦国時代は武士だったということ。

芭蕉は次男だったために、伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の跡継ぎの良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕えたそう。
この主人の良忠の趣味が俳句、芭蕉は同じ年代の主人良忠と一緒に北村季吟に弟子入りしたのが俳句の世界に入るきっかけだったのですね。

しかし良忠は早死にしたため、芭蕉は江戸へ出て当時の俳句の会のサロンのような場所に出入りしたりしていましたが、なんと水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わったことがあるそうです。
無職でいると聞こえが悪いからとりあえず紹介されて従事した仕事、なんて言われることもありますが、これがなかなか人事や出納などむずかしく頭も人望もないとできない仕事だということで、芭蕉の研究者たちは俳句以外にも芭蕉の有能さを示すことだと賞賛しているそうです。

芭蕉の謎の行動?

そして芭蕉はあちこち旅をして俳句を詠んだことで有名ですが、特に「おくの細道」、奥州、北陸を旅して詠んだ俳句集が有名です。
このおくの細道の旅は、門人の河合曾良を同行していて、曾良は「曾良日記」を残しているのですが、「おくの細道」と「曾良日記」を突き合わせてみると、「おくの細道」にはある程度フィクションが入っているということがわかるそう。

そして曾良日記をたどると、芭蕉は旅先で不思議な行動をしているということなんですね。
最初に松島がみたいと書いているのにもかかわらず、ほとんどそこには滞在せず、西行法師のあとの名所をたどるはずなのになんでそんなところにという仙台伊達藩内の鉱山とか、関係ないところに寄ったりしたそう。

おまけに旅費、たしかに行く土地土地で俳句の会とかを開催して、俳句つながりでもてなされているでしょうが、けっこう高額の旅費をどこからねん出したのかと気になるところです。
それに実は弟子の河合曽良は、芭蕉の死後に幕府の役人となり、巡検使として九州へ行ったという経歴があり(これはもろに諜報活動だということです)、いよいよもって芭蕉は幕府の資金で奥州の伊達家を探りに行ったのではないか、俳句は隠れ蓑で忍者として情報を集めていたのが本業ではといわれているのですね。

こういう話は芭蕉の研究者に瞬殺で論破されることが多いですが、芭蕉忍者説の場合、研究者の方があり得ると頷くところがすごいです。
昔は今のような情報社会ではないため、人々が集まっては情報交換していたし、旅人はよその土地の情報を持ってくると歓迎されていたということもあり、忍者の手引書にはお茶や俳句の師匠になるべしと書いてあるそうで、松尾芭蕉、まさか忍者が本業だったのが、副業の俳句の師匠で歴史に残ったのかもしれないと思うと皮肉な感じがしますですね。

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