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夷陵の戦い。劉備の夢がついえた戦い。

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三国志は劉備三兄弟の桃園の誓いに始まります。その劉備の夢がついえた瞬間を見てみましょう。

義弟関羽の横死に激怒した蜀の皇帝劉備は、その死の責任を裏切った呉に求めました。
呉は関羽が勢力を拡大させることに危機感を持ち、魏と組んで関羽を攻め滅ぼしていたからです。
また、もう一人の義弟張飛は呉への遠征準備中に配下によって暗殺され、暗殺者は呉に逃れました。

蜀の丞相であった諸葛亮や古参の将軍である趙雲らは遠征に反対しますが劉備は聞く耳を持ちませんでした。
西暦222年、怒り狂った劉備は自ら軍を率いて呉に攻め込みます。
当初、蜀軍は連戦連勝して呉の都を目指しました。

破竹の勢いで進撃する蜀軍を迎え撃つ司令官として抜擢されたのが陸遜でした。
陸遜は、猛烈な勢いの蜀軍と正面から戦おうとはせず持久戦に持ち込みます。
呉の将軍たちは陸遜に開戦を迫りますが決して許しませんでした。

呉の奥地まで進攻しつつも本格的な戦いがなく蜀軍から緊張感が失われつつあったとき、
陸遜は反撃を開始します。
敵国に侵攻して補給線を長大に伸ばすことは大変危険です。
陸遜は火計で劉備の陣を次々と焼き払いました。細く長く伸び切った陣を各所で寸断することで対処を困難にしたのです。

陸遜がこの時とった戦法は現代でいうところの縦深防御に相当するでしょう。
敵軍を補給の限界点まで引きずり込んで補給線に過大な負荷を与え、それを寸断し壊滅に追い込むのです。
国土の大きな国では非常に有効な戦法であることはナポレオンのロシア遠征を持ち出すまでもなく有効です。

寸断されまともに抵抗すらできなくなった蜀軍は国境の白帝城に逃げ込みました。
かつて、劉備が諸葛亮に教えられた天下三分の計。その大前提である荊州を失ったことは蜀による天下統一への路が後退したことを意味します。
曹操や魏にとって赤壁で呉に敗れたことで天下統一が遠のいたのと同じく、夷陵の戦いでの敗北は劉備の天下統一への夢が立たれたことを意味しました。
失意の劉備は戦いの翌年に白帝城で死去しました。

※画像はイメージです

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