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革命か、政変か。打倒チャウシェスクの舞台裏!

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1989年のクリスマス。共産主義の孤塁を死守するルーマニアのチャウシェスク大統領が処刑され、この国の民主化が実現した。しかし、革命勢力による政権掌握に至るまでの一連の流れには、いまだに解き明かすことのできない大きな謎が残されている。

あの人民裁判は、なぜ「ルーマニアの恥」と叩かれるようになったのか。
革命は、じつは民衆蜂起に乗じた反チャウシェスク派のクーデターだったという陰謀説は真実なのか。
チャウシェスクが死刑執行直前に憎しみをこめて口にした「裏切り者」とは誰か。
あのとき、独裁者打倒の舞台裏で何がおきていたのだろう。

目次

トゥルゴヴィシュテ裁判の問題点

1989年12月のルーマニア革命のおり、ニコラエ・チャウシェスクは妻エレナと首都ブクレシュティ(ブカレスト)から逃亡を図り、トゥルゴヴィシュテにて拘束された。夫妻は自分たちが「捕らえられた」とは思っておらず、トゥルゴヴィシュテの軍隊に保護されたと認識していたという。

革命軍である救国戦線は当初、夫妻をブクレシュティに連行して通常の裁判を開廷する予定だった。それがトゥルゴヴィシュテでの略式裁判に変更されたのは、セクリターテ(秘密警察)がチャウシェスク奪還を目論んで攻撃をしかけ、銃撃戦になったため、迅速な対応を余儀なくされたからだといわれる。
夫妻は国民の大量虐殺、秘密口座の開設、国の経済を衰退させた等の罪状で全財産没収、ならびに銃殺刑に処された。余談になるが、ルーマニアでは共産党一党独裁が崩壊した翌月、ただちに死刑制度が廃止されている。夫妻は同国で死刑が執行された最後の人物なのだ。

チャウシェスクの処刑から時がたつにつれて、この裁判を疑問視する声が世界中であがるようになった。
まず第一に、起訴状を被告人に通達していないこと、犯罪捜査が行われていないことなど、法律に違反する事実がいくつかある。ルーマニアの法律に詳しい、ある軍事検察官によると、「ルーマニアでは判決から10日がすぎた時点で判決が確定する」そうだが、その法律にも違反していることになる。彼はまた、「チャウシェスク夫妻に対する起訴内容は常識では考えられない」ものであり、「ルーマニアの恥を全世界にさらした」とも述べている。

ソ連共産党中央委員会の元政治局委員・ミハイル・サロメンツェフの言葉も引こう。
「あの裁判は残酷きわまりない。思い出すたびに胸が悪くなる。起訴状も捜査もなく、ただ判決を読み上げ、二人を外へ連れ出して、銃弾を浴びせた。逆に聞きたいよ。どういう見方をすれば法律違反じゃなくなるんだ?」

つづいて歴史家ゾエ・ペトレ。彼の洞察は、おそらく核心をついたものだろう。
「あの裁判は、法にのっとった体裁を演出しただけの茶番劇。チャウシェスクは、自分に取って代わるであろう新たな指導者について知りつくしていた。だから殺された」

自分に取って代わるであろう、新たな指導者。
それは、共産党中央政治局員という立場から救国戦線の議長となったイオン・イリエスク。

イオン・イリエスク
Aluísio/Vice-presidência da República, CC BY 3.0 BR, via Wikimedia Commons

ルーマニア革命最大の謎~なぜ銃撃戦は発生したか

ルーマニア革命には、30年あまり経過した現在でも不透明な部分がある。そのなかでも最大の謎とされているのが、850人以上が犠牲となった12月22日夜の銃撃戦と、その発生原因だ。

その日の正午すぎ、チャウシェスクは共産党本部からヘリで脱出して政権が崩壊。その後に銃撃戦がおきたことで市民は街から消え、
革命勢力が主要施設を占拠して、ついに全権奪取に至ったのである。イオン・イリエスクは当時、銃撃戦の発生原因を「チャウシェスク奪還を図る残党テロリストとの戦闘」と説明していたが、これは虚偽であったことがのちに明らかになっている。
イリエスクの元側近のヴィクトル・スタンクレスク将軍が、実際にはテロ勢力は存在せず、銃撃戦は自作自演であったことを証言したのだ。
戦闘をでっちあげて混乱を生み、市民を街から排除して、政権掌握を容易にする狙いがあったと思われる。注目すべきは、この銃撃戦をきっかけに革命軍が新政権を打ち立てたという事実である。
ルーマニア革命は、共産党の反チャウシェスク派が民衆蜂起を利用して政権を奪取した「革命の乗っ取り劇」との疑惑があるが、まさにそれを裏づける証言といえるだろう。

最終的に地位を得たのは民衆ではなかった。チャウシェスクは、「チャウシェスク外し」を画策する同志の罠にまんまとはまってしまったのではないだろうか。

ルーマニア革命の舞台裏、立証は困難

イオン・イリエスクは、革命後に行われた国民投票による初の大統領選挙で大統領の座についた。1990年から1996年、および2000年から2004年のルーマニアの国家元首である。

革命から29年がすぎた2018年12月、ルーマニア検察当局は、かつての革命の際に偽りの情報を流して銃撃戦を扇動し、800人を超える犠牲者をだした責任を問い、88歳のイリエスク元大統領を起訴した。人道に対する罪だった。
しかし先の証言をしたスタンクレスクをはじめ、関係者の多くがこの世を去った今、公判での立証はきわめて難しいとみる向きが強い。さらにはイリエスクが保身のために圧力をかけることも十分に考えられる。ルーマニア革命の舞台裏が白日のもとにさらされる日はおそらくこないのではないか、と筆者は思う。チャウシェスクの今際の言葉がよみがえる。

「裏切り者を殺せ。歴史がわたしの敵討ちをしてくれるだろう」

軍服姿のチャウシェスク
uploader Spiridon Ion Cepleanu, Public domain, via Wikimedia Commons

ルーマニアはどこへいく

民主主義国家が誕生して以来、ルーマニアでは革命に関する世論調査がたびたび行われてきたが、いずれも興味深い結果がでている。
まずは革命10周年にあたる1999年の調査。「チャウシェスク時代のほうが今より生活が楽だった」と答えた回答者が6割を超えた。
失業率の上昇により国民が疲弊し、各地でストライキがおきていた時代だ。「チャウシェスク、あなたに会いたい」と書かれたプラカードを手にした者もめずらしくなかったという。即座に処刑されるほど憎まれた独裁者が、国民の一定水準の生活を守ってくれていたことに今さら気づかされるという、皮肉な結果である。

2009年の世論調査では、やはり6割以上の国民が「現在の政治家はあの時代より腐敗している」と回答。「チャウシェスクの失脚はルーマニアにとって損失」と答えた人が4割近くにのぼった。さらに驚いたことに、回答者の7割以上が「夫妻は処刑されるべきではなかった」と考えていて、「処刑されて当然」と回答した人はわずか1割程度にとどまった。

2010年になると、じつに8割以上の国民が「あれは公正な裁判ではなく、刑を執行したのは誤り」と回答。1989年に吹き荒れた嵐を「革命」ととらえる人と、「クーデター」ととらえる人の割合は半々だった。

むだな血が流れすぎたルーマニア革命。その責任を負うべき人間と、革命が勃発する余地をつくったチャウシェスク。
国民のあいだには、革命は今も続いているとの声もある。多くの後遺症をかかえながら、ルーマニアはどこへいくのだろう。

参考文献『赤い王朝』イオン・M・パチェパ著/住谷春也訳

featured image:Târgovişte, Romania Police department, Public domain, via Wikimedia Commons

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