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自由の国が生んだカルト集団マンソンファミリーと最終戦争ヘルタースケルター

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60年代の米国を一言で表すなら、カオスという言葉がぴったりだろう。
ワシントン大行進、ケネディ大統領とキング牧師の暗殺、ベトナム戦争の泥沼化。古き良きアメリカの終焉。大国を覆う、先行きの見えない閉塞感。

そんな混沌とした世相の中、若者たちのあいだでヒッピーカルチャーが花開いた。反戦・反政府・反体制をうたうムーヴメントは、愛と平和を合言葉に、サンフランシスコのヘイトアシュベリーから全米各地に広がった。いわゆるサマー・オブ・ラヴというやつだ。
街には長髪の若い男女とドラッグがあふれ、ロックの野外フェスティバルにはヒッピーが押し寄せて、ハイになって熱狂した。

ちょうどそのころ、何度目かの別荘暮らしを終えたミュージシャン志望の男が、わずかなコインとギターを手にヒッピー革命の震源地ヘイトアシュベリーに降り立った。
すでに時代はフラワームーヴメントの真っただ中。久しぶりに目にするシャバに男はびっくり。なぜなら、世間はLSDとフリーセックスのワンダーランドと化し、誰もが徴兵を逃れるためにやっきになって、愛と平和と自由に浮かれていたのだから。

このとき、時代は完全に彼の味方だった。
男の名はチャールズ・マンソン。自由の国アメリカが生んだカルトスターである。

目次

SEX、ドラッグ、ロックンロールをきわめた教祖

60年代、終末論を標榜するカルト集団を主導して、ロサンゼルスの白人富裕層をターゲットに無差別殺人を繰り返したチャールズ・マンソン。女優シャロン・テート惨殺事件やラビアンカ夫妻殺害事件を含む犯行において、本人は殺害に直接関与していないと知ると驚く人がいるかもしれない。彼は自らの手を汚さない教祖であり、信者たちを洗脳し、指示する形で殺人を実行した。

マンソンファミリーのメンバーは、そこそこ裕福な中流家庭の若者が多かった。ただし彼らは、まっとうな社会のレールから外れてしまったドロップアウト組。
そんな若者たちの前に、人生の半分以上を塀の中で過ごしてきたアウトローが降臨した。人生経験に乏しい彼らがチャールズにカリスマ性や凄みを感じたとしても不思議ではない。

獄中でデール・カーネギーの『人を動かす』やサイエントロジーに傾倒したチャールズは、巧みな話術と得意のギターで、まず女たちを籠絡した。女の子を手なずける天才だったのはまちがいないが、そのルックスの効果も大きかったと思われる。彼は時代が求めるヒッピー像そのものであり、本人も時流を敏感にキャッチして、さながらキリストのようにヴィジュアルを演出していたという。

自らをヒッピーカルチャーの象徴に仕立て上げ、相手のコンプレックスにつけこんだ説教で心をつかむ。そして、愛に飢え、満たされない自己肯定感を抱えた彼女たちにたっぷりのドラッグと愛を注入する。ここでいう愛とは、単におちんちんをさす。「自由な愛」を謳歌する女の子たちは、憧れのグルが提供する快楽の虜になった。チャールズは、信奉者の女性を使って男たちをも仲間に引き入れ、ヒッピーコミューンを形成していく。これが毒牙でなくて、なんなのだ。

California Department of Corrections and Rehabilitation, Public domain, via Wikimedia Commons

過激化する思想~終末戦争ヘルタースケルター~

ファミリーは大所帯になり、スーザン・アトキンスとメアリー・ブルンナーがそろってチャールズの子を産んだこともあって、みんなでロサンゼルス郊外のスパーン牧場に移り住む。牧場主はジョージ・スパーン、御年80歳。ファミリーの女の子を好きなときに「使用」できることを条件に、チャールズはスパーンから居住の許可を取りつけた。

来る日も来る日もドラッグと乱交パーティー三昧の自堕落な共同生活。この頃の信者への説教は、殺人さえも正当化する危険なものになっていた。人民寺院のジム・ジョーンズやオウム真理教の麻原彰晃がそうだったように、チャールズの妄想もふくらんでいく。
そしてある日、ビートルズのニューアルバム『ザ・ビートルズ』(通称『ホワイトアルバム』)にハルマゲトンの予言を読みとってしまうのである。

とりわけチャールズの心をとらえたのが『ヘルタースケルター』の歌詞だった。ヘルタースケルターとは、遊園地にある螺旋すべり台ことで、「混乱」「ハチャメチャ」を意味するスラングでもある。コンポーザーは「レノン=マッカートニー」とクレジットされているが、じつはポールが一人で手がけた楽曲。ポールいわく、「最高にワイルドで馬鹿げたロックンロールをやりたくて作った曲」とのことで、歌詞にも深い意味はなかった。ところがチャールズの脳内では、なぜかこう変換されてしまう。

「こいつはすごい歌だ。ビートルズが何を言ってるかわかるか? これは予言だよ。大混乱、つまりハルマゲドンを歌ってる!」

ラリった教祖の妄想は止まらない。

「近い将来、黒人が武装蜂起して白人との戦争がはじまるだろう。それは核戦争に発展して、白人は絶滅する。へルタースケルターとは、この人種間戦争のことなのだ。だが、黒いやつらに世界を統治する能力があるか?」
「No!」
「そのとおり。そこで俺たちの出番てわけだ。マンソンファミリーはデスヴァレーの洞窟に身を潜めて人種間戦争を回避する。機が熟したら地上に上がり、黒人に代わって世界を支配する。チャールズ・マンソンの子どもたちで世界を埋めつくしてやろう。俺たちにはそれができる。なぜなら、俺はキリストの生まれ変わりだからだ!」

教祖の熱弁にファミリーは大興奮。いや、どう考えてもジャンキーの妄言だろう。まったくもって理解できない、ぶっとんだ思考回路。
ファミリーは、黒人を装って白人を殺害することを思いつく。その狙いは終末戦争の早期勃発。計画はビートルズにあやかって「ヘルタースケルター」と命名された。

シエロドライブ10050番地

話は少しさかのぼるが、チャールズには「名の売れたミュージシャンになる」というまともな夢があった。かなり本気だった。
運よく知り合ったビーチボーイズのデニス・ウィルソンは、音楽シーンに参入したいチャールズをなにかとバックアップしてくれた。紹介された大物プロデューサーにテリー・メルチャーがいる。テリー・メルチャーは往年の人気女優ドリス・デイの息子で、恋人のキャンディス・バーゲンとシエロドライブ10050番地にある豪邸に住んでいた。マリブの邸宅に引っ越したのは1968年12月のことである。
チャールズは、この敏腕プロデューサーが自分の音楽活動を後押ししてくれると思いこんでいたが、それが叶うことはなかった。逆恨みがシャロン・テート惨殺事件のトリガーになったのはまちがいない。

1969年8月8日の夜、チャールズはテックス・ワトソン、スーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケル、リンダ・カサビアンの4人をシエロドライブ10050番地に送りこんだ。不幸にも、このときの住人は映画監督ロマン・ポランスキーと、その妻で女優のシャロン・テート。シャロンは妊娠8か月の身重だった。夫のロマン・ポランスキーはヨーロッパに滞在中のため不在。

ポランスキー邸に侵入しようとする4人を不審に思い、声をかけてきた通りがかりの男性に4発の銃弾を撃ちこんだあと、ファミリーはシャロン・テートと友人たちに襲いかかった。

「動くと殺す」
「誰だ、きみたちは?」
「悪魔だよ。悪魔の仕事をするために来た」
「警察を呼ぶぞ!」
「あいにく、電話線は切った」
「おい、やめろ。彼女が妊娠してるのがわからないのか?」
「お願い、殺さないで! 私は赤ちゃんを産みたいだけなの!」
「関係ないね。あんたはここで死ぬのよ、このビッチ!」

悪魔たちは、たっぷり時間をかけて悪魔の所業を楽しんだあと、牧場へ帰っていった。犠牲者となった不運な4人の男女は、合計すると100回以上もメッタ刺しにされ、縛られ、殴られ、撃たれて息絶えた。

この事件の特異な点は、誰を殺したのかを実行犯が知らなかったことだろう。翌日のニュースで被害者の名前を初めて知ってぞくぞくした、とスーザン・アトキンスは語っている。全米を揺るがす大ニュースに大満足というところか。

惨劇はこれで終わらなかった。シャロン・テートを殺した翌日には、スーパーマーケットチェーンのオーナーであるレノ・ラビアンカとその妻ローズマリーがターゲットとなった。遺体は後日、「Death to Pigs」(豚どもに死を)、「Healter Skelter」(スペルミス。正しくは「Helter Skelter」)の血文字が書かれた部屋で発見される。夫妻の全身には、合わせて70か所以上も刺された痕があった。

マンソンファミリーのお粗末すぎる顚末

1週間後の8月16日、チャールズは20名のファミリーとともに逮捕された。しかし、このときは車両窃盗容疑であり、証拠不十分のために釈放されている。

事態が大きく動いたのは10月。第一の殺人事件(ゲイリー・ヒンマン殺害事件)で逮捕されたボビー・ボーソレイユの恋人が警察に保護を求め、事件とマンソンファミリーの関連を証言したのだ。また別件で逮捕されていたスーザン・アトキンスも、シャロン・テートとラビアンカ夫妻殺しに関与したことを同房の囚人に明かしていた。告白した理由が「自慢したかったから」というのだから、なんとも救いようのない幼稚さがうかがえる。チャールズと実行犯には、当然の死刑判決が下された。

ところが、時代はまたしても彼に味方する。カリフォルニア州における死刑制度が1972年に廃止されたことで、彼らはそろって終身刑に減刑されたのだ。後年死刑制度は復活するも、チャールズにはなんら影響が及ぶことはなかった。

その後、チャールズは獄中ライブを行ったり、アルバムをリリースしたり、スター気どりでメディアのインタビューを受けたり、80歳で20代の一般女性と獄中婚約したりして話題を振りまいたあげく、2017年に急性心筋梗塞でこの世を去る。83歳だった。納税者の血税で衣食住を保証されたまま、それなりに楽しい余生をまっとうしたことになる。反省の色は、ついぞなかった。

チャールズ・マンソンのようなケースをみるたびに、死刑制度の功罪について考えさせられる。これほど罪深い人間を極刑に処することができない米国の司法の愚かさ。もし筆者が被害者遺族であったなら、無能な司法に絶望したことだろう。
いうまでもなく、死刑は人の命を絶つ刑罰であり、その執行においては慎重な態度で臨む必要がある。冤罪のリスクを避けるためにも、死刑制度を手放しで肯定することはできない。しかしそれは同時に、冤罪の可能性が皆無かつ矯正が望めない殺人鬼も極刑を免れるということだ。懲役400年などという実現不可能な刑罰はもはや刑罰ではなく、形式上取り繕っただけの架空刑にすぎないと思う。

チャールズ・マンソンをカルトスターとして持ち上げる人々を筆者は理解できない。
この男は運よく時流に乗り、若者たちの心の隙をついて自分を盲信させ、カルト集団をつくりあげて、彼らを意のままに操ろうとした。
カリスマの罪人として怖れられることに快感を覚える小悪党であり、ヒッピーカルチャー全盛期に咲いた時代の徒花にすぎない。

featured image:California Department of Corrections and Rehabilitation, Public domain, via Wikimedia Commons
※一部の画像はイメージです。

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