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四国を統一を果たすも、時流に翻弄された悲運の名将「長宗我部元親」

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「鳥なき島の蝙蝠」とは長宗我部元親を評した織田信長の言葉です。

四国統一までは彼に味方した時の利・地の利も、本能寺の変を境に流れは変わります。
「蝙蝠」の身に余る野望は、元親をどこへ導いたのでしょうか。

長宗我部氏の出自は秦の始皇帝の血を引く渡来人に遡り、鎌倉時代初期の信濃(現・長野県)を領した秦河勝(はたのかわかつ)の末裔の能俊(よしとし)が、四国土佐国の長岡郡宗部郷に入ります。
宗我部氏を称したのち、隣の香美郡にも宗我部氏を名乗る中原一族があったため、長宗我部に改姓。

室町時代には幕府の威を借りる守護代細川氏の庇護のもと、寺奉行に任ぜられますが、応仁の乱で細川政元が殺害されたのを機に元親の祖父長宗我部兼序(ちょそかべかねつぐ)は孤立を深め、ついに本山氏率いる諸豪との戦いに敗死します。時に永正5年(1508年)のことです。

それから10年、元親の父である長宗我部国親(ちょそかべくにちか)が、幡多郡中村の公家大名の一条房家の仲介で、元服した国親は本領を回復します。
そして永禄3年(1560年)22才という遅い初陣となった本山軍2000対長宗我部軍1000の長浜表の戦いで、かつては「姫若子」と嘲笑されたひ弱さを払拭する元親の奮戦で、長宗我部軍の勝利、「土佐の出来人」と元親は称賛されます。
しかし国親は宿敵の本山氏討伐を果たすことなく急死、その志しは元親に受け継がれます。

国親の急死より8年後、永禄11年(1568年)元親は悲願である本山氏討伐を果たすと、土佐統一に邁進、調略を駆使して東の安芸氏を倒すと、当主の追放劇に揺れる一条氏の内紛に付け入り、幡多地方を奪取、天正3年(1575年)に土佐統一を果たします。土佐制覇の勢いに乗り、天正6年(1578年)南阿波を平定、更に東部を除く讃岐全域を手中にしました。

伊予では毛利氏の支援を受けた土豪の抵抗に苦戦しますが、播磨に進出してきた織田方の羽柴秀吉対策で毛利軍が撤退した隙に伊予を攻略します。
また、領土拡大の傍ら明智光秀を介して織田信長と誼みを通じ、元親の嫡男は元服にあたり信長の偏諱(へんき)を受け信親を名乗ります。
しかし、その信長も、元親の勢力拡大に快く思わなくなり四国出兵を決意、元親は最大の危機を迎えますが、そこに本能寺の変が起こり、偶然にも救われた元親は、天正12年(1584年)四国制覇を成し遂げました。

だが、その時すでに羽柴秀吉の覇権が確立していたのが不運であり、三方から押し寄せる羽柴軍の大軍に対する半農半兵の旧弊な一領具足、不屈の闘志をもって鳴る元親率いる長宗我部軍も彼我の差はいかんしともしがたく、元親は秀吉に服属、土佐一国の安堵を了承しるしかありませんでした。自ら野望を打ち砕いた秀吉の厚遇に忠節で応えた元親ですが、愛子信親を秀吉の九州征伐の豊後戸次川合戦で失ってから、元親は衰えが目立ちはじめ、偏愛する四男の盛親の相続強行は、老いた心のよすがを求めてのことでしょう。

破竹の勢いで四国制覇を果たした元親、時流に翻弄された悲運の名将は、慶長4年(1599年)伏見で病没しました。

eyecatch source:不明。, Public domain, via Wikimedia Commons

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