織田信忠の決断が織田家衰退を早めた??

織田信忠、織田信長の嫡男の決断とは???

天正10年6月2日、日本史最大の謎の大事件、本能寺の変が起きた。
明智光秀が主君の織田信長に謀叛して、信長を横死させたのである。

信長の死で戦国乱世の終焉は遅れる事になるのだが、この本能寺の変が起きた時、信長に従って京にいた織田信忠、信長の嫡男で信長から織田家の家督を譲られ、美濃と尾張を相続。

■織田信忠の肖像画
不明 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由
武田征伐においては、信長に先駆けて信濃と斐を制圧の指揮をとり、武田氏滅亡に貢献後、信長の天下統一の仕上げ西国制圧に向け、信長に従って京に入っていた信忠が本能寺にいた信長を光秀率いる軍勢に襲撃された。

報せを受けた信忠は急ぎ支度して信長救援に向かうが間に合わず、信忠は二条城に立て籠り、明智軍に応戦、激しく抵抗したものの敢えなく討ち死にする事になるのだが、この時の信忠の決断が織田家衰退を早めた事は否めない。

もしも、この時に信忠が京から脱出していたなら、織田家は衰退する事はなかったであろう。
京の脱出に成功した信忠は近江安土城に逃げ込み、急ぎ反転攻勢の支度を整えるため、近江衆を糾合して近江野洲川辺りで明智軍の先陣と戦い、これを撃破、信長の仇討ち戦を瀬田辺りか山科辺りで光秀の軍と行い、見事に光秀を討ち果たしたに違いない。

その後は織田政権を受け継ぎ、天下統一へ邁進したに違いないのであるが、天下を取れたかは別にして信長の死後、衰退した織田家の輝きは失う事はなかったと思うだけに、信忠は本能寺の変報を知った時に京から脱出を決断すべきであったのだ。

まったく後悔する決断であったと思う、何故ならば、信長の死後の織田家の衰退、本能寺の変後の織田家の歴史を見ればわかる。
豊臣秀吉の天下取りに利用される始末となり、信忠が京脱出をしていればと・・・私は思うのである。


ノブズミ
日本史好き、歴史好きのおっさんです。

※画像はイメージです。

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