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エドガー・アラン・ポーはタイムトラベラーだった?都市伝説を検証!

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『黒猫』『アッシャー家の崩壊』『モルグ街の殺人』などの優れた小説を発表し、アメリカ文学史に金字塔を打ち立てた作家、エドガー・アラン・ポー。
たった40年の短い生涯を閉じた彼に、タイムトラベラー説が浮上しているのはご存知でしたか?

今回はエドガー・アラン・ポータイムトラベラー説他、小説と現実の奇妙なリンクを取り上げていきたいと思います。

目次

エドガー・アラン・ポーの生い立ち

エドガー・アラン・ポーは1809年、俳優デイヴィッド・ポーと女優エリザべス・ポーの次男としてマサチューセッツ州ボストンに生まれました。
巡業で忙しい両親はポーと2歳上の兄ウィリアムをデイヴィッドの実家に預けたものの、1810年に父親が突然蒸発。その際ポーの妹・ロザリーを妊娠中だったエリザベスは、出産まもなく結核を患って他界し、3兄弟はばらばらの家に引き取られました。

裕福な商人アラン家の養子となったポーは、1815年にイギリスに渡り、ロンドンのチェルシーにて寄宿学校に入ります。この時の体験をもとに書かれたのが『ウィリアム・ウィルソン』でした。
その後一家はアメリカに戻り、ポーはヴァージニア大学に入学。広範な語学を修め、詩人としての才能を徐々に開花させていきます。

ポーは大学時代に苦い失恋を経験しました。相手は近所に住む美少女、サラ・エルマイラ・ロイスター。
2人は密かに婚約を交わしたものの、それがサラの父親の逆鱗に触れ、サラは別の男に嫁がされてしまいました。
この頃から養父の仕送りが滞り始め、ポーはトランプ賭博に溺れ、2000ドル以上の借金を背負いこみます。

結局借金のせいで大学を辞めざる得なくなり、新聞社のアルバイトをしながら貯金を蓄え、ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学。
しかし士官学校の規則は厳しく、詩や小説を読むことさえ禁じられたポーは怠惰な生活を送り、1830年の10月に放校処分を受けています。
以降はボルチモアに移住し文筆業に傾倒、精力的に作品を生み出し続けます。

ボルチモアの政治家兼作家ジョン・P・ケネディと親交を深めたポーは、彼の推薦で『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に掲載してもらい、遂には『メッセンジャー』誌の主筆編集者の地位を手に入れました。
ポーは出世と前後し、従妹のヴァージニアにプロポーズ。ポー26歳、ヴァージニア13歳1か月の時に結婚します。

ヴァージニアは結婚可能な法定年齢に達していなかった為、結婚宣誓書では21歳と年齢を偽っていました。
蜜月は長く続きません。
編集方針の違いで同僚と対立し、職場で孤立に追い込まれたのち、新しい雑誌の刊行計画が立ち消え、そこに追い討ちをかけるようにピアノ演奏中のヴァージニアが喀血。1846年に幼妻が他界すると、さらに生活が荒れていきます。

その後複数の女性と恋愛関係を持ったポーは、未亡人となった元恋人・サラと再会し婚約。
ところが1849年9月、新雑誌の出版準備の為ニューヨークに赴いたのち、投票所付近の酒場「グース・サージェンツ」にて泥酔状態で倒れている所を発見されます。当時のポーは出立時と別の服を着ており、浮浪者じみた身なりをしていたそうです。

結局ポーの意識は回復せず、他界の前夜に「レイノルズ」と謎の言葉を連呼し、ひっそり息を引き取りました。
最期の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ(Lord help my poor soul)」だと伝えられています。

クーピング説が有力!ポーの死因の謎

ポーの死因として有力視されているのは、当時流行していたクーピング説です。1800年代のアメリカ合衆国では、投票資格を持った成人を捕まえ、特定の候補に繰り返し投票させる不正行為・クーピングが問題となっていました。
クーピングの語源は拉致した被害者を狭苦しい場所(coop)に監禁したからで、ポーもまたこのターゲットにされ、投票所付近で倒れていたのではと噂されました。

ポーが訪れた時期はメリーランド州議会選挙の真っ最中であり、粗末な服を着せて身元を隠し、大量のアルコールで酔わせたと考えれば、納得できる説ですね。

『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』の秘密

謎めいた最期がファンの好奇心をかきたてるエドガー・アラン・ポー。そんな彼が1838年に発表した唯一の長編小説が『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』。
本作は遭難した捕鯨船の悲劇を描いた物語で、船員たちが飢餓と狂気に駆り立てられ共食いを始める、凄惨な内容となっています。登場人物たちはくじ引きで犠牲者を決めることにし、その結果リチャード・パーカーが選ばれ、食べられてしまいました。

本作の出版から46年後の1884年、イギリス船籍のヨット・ミニョネット号が、喜望峰から1600マイルの沖合で沈没しました。難破船から救命艇で脱出したのは、給仕の少年1人を含む4人の男たち。しかし艇内にはカブの缶詰2個しか見当たらず、雨水を溜めたりウミガメを捕まえ空腹を誤魔化すも足らず、18日目にはとうとう食糧が底を尽きます。
極限状況下で追い詰められた男たちは、海水を飲んで衰弱した17歳の少年を殺し、遺体を解体して食べてしまったのです。

彼の名前はリチャード・パーカー……『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』の犠牲者と同姓同名な、ミニョネット号事件の被害者です。
その後生還した乗組員たちは裁かれたものの、字の読み書きすら怪しい教育水準の低さ故に、半世紀前に死んだ外国の作家の名前を知る者はいませんでした。

衝撃の事実が明かされたきっかけは、パーカーの曾孫にあたるナイジェル・パーカーが、『サンデー・タイムズ』主催「偶然の一致体験談コンテスト」に応募したこと。証拠としてパーカーの手紙も提出しており、信憑性は高いと言えます。ナイジェルは見事優勝を果たし、賞金100ポンドを手にしたそうです。

ポーは脳科学の先駆者だった!?

1848年、鉄道員のフィニアス・ゲージは工事中に事故に遭いました。鉄の大釘が頭部に刺さったのです。幸い命に別状はなかったものの、前頭葉を貫かれたフィニアスの人格は豹変し、些細なことですぐ声を荒げ、暴力を振るうようになっていきました。
ポーは事故の10年前に、前頭葉へのダメージが引き起こす人格の変化に言及しています。

その証拠が1840年に発表された小説、『実業家(The Business Man)』。本作では子供の頃に頭部を怪我した主人公が、常に強迫観念や破壊的な衝動に苛まれ、人生を狂わせていきました。

文学に造詣が深いポーも医学分野は門外漢、前頭葉症候群の知識など持ち得るはずがありません。にもかかわらず作中の描写は前頭葉症候群の特徴を詳細に言い当てており、神経学者のエリック・アルツシューラーは、「タイムマシンで未来へ行って見てきたようだ」と気味悪がっています。

ビッグバン理論の先取り

ポーの死の前年の1848年、『ユリイカ』に150ページに亘る散文詩が掲載されました。内容は実に支離滅裂なもので、ポーの才能が枯れたと幻滅した読者は、盛大な不評をもって迎えます。

多くの人間が狂気の産物と見なした詩の中に、ビッグバン理論の骨子が隠されていると、誰が予想し得たでしょうか?
この詩においてポーは「一瞬の閃光で始まる宇宙の膨張は、一粒の原始的粒子が引き起こした」と論じています。後世の天文学者が数え切れない観測と検証を積み重ね、漸く辿り着いたビッグバン理論の基礎を、ポーは何故か予見していました。
ポーの時代は天体観測を行える高性能な望遠鏡など存在せず、星々が一定の周期で運行していることさえ、人々は知らなかったのです。

未来を視た男、エドガー・アラン・ポー

以上、エドガー・アラン・ポータイムトラベラー説を紹介しました。幻想色の濃いホラーを多く手掛けたポーなら、霊感を授かって、予知夢を見ることもあるかもしれませんね。

たとえ未来を見てきたのだとしても、愛する妻や自分の死は避けられなかったあたりに皮肉を感じてしまいます。

featured image:W.S. Hartshorn, Public domain, via Wikimedia Commons

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