清少納言、紫式部、和泉式部などと並ぶ、平安時代の才女であった赤染衛門(あかぞめえもん)は、思いやりがあって人から頼りとされ、この時代では珍しく、穏やかに85歳以上まで長生きした。
特に和歌は、依頼された代作を含めて拾遺和歌集等の勅撰和歌集に93首が入集されています。
どのような人物だったか考察したいと思います。
赤染衛門とは
赤染衛門は、大隅守赤染時用(あかぞめときもち)の娘と言われているが、母は妊娠して間もなく前夫の平兼盛と離婚し、赤染時用の妻となったので平兼盛が実の父であると伝えられている。
後に夫となる、大江匡衡は、藤原道長、藤原行成、藤原公任などと交流があり上奏文などを代作した。尾張国の国司として善政を行ったが望んだ公卿としての地位は得られなかった。
大江匡衡と赤染衛門は、おしどり夫婦と言われるほど仲睦まじかった。
赤染衛門の心の広さ
赤染衛門は妹に「今晩行くから」と訪問の約束をした藤原道隆が約束をすっぽかしたので、その妹のために百人一首で知られている「やすらはで寝なましものをさよふけて傾ぶくまでの月を見しかな」という歌を代作している。
現代語訳にすると、「こんなことならぐずぐずしておらずに寝てしまえばよかったわ、もう夜が更けて西側に沈んでゆこうとする月を見てしまったの」となる。
この妹は赤染時用の実の娘であり、赤染衛門ほどの歌作成能力がなかったのであろう。
裏を返せば、ずば抜けた歌作成能力を有する赤染衛門は、著名な歌人であった平兼盛の実の娘であるということになる。このことを悟った赤染衛門は、おそらくポジティブに物事を考え、「いろいろの経緯があった母はとにかく自分を大切に育ててくれた、実父である平兼盛は親権裁判まで起こして頑張ってくれた、養父である赤染時用は最後まで自分が実の父だと言い張って頑張ってくれた」と思ったのであろう。
これらのことが、赤染衛門の心の広さのベースになっていたと思う。
まさに良妻賢母
夫の大江匡衡が藤原公任に辞表の代作を頼まれて悩んでいたとき、夫に適切な助言を行い、夫が国司として尾張に暮らすようになったとき、同行して一緒に暮らしている。
息子の挙周(たかちか)が重病になったとき、住吉明神に献歌して病気が快癒したという話もある。挙周の出世が遅いと嘆いて、藤原道長の正妻である鷹司殿倫子(たかつかさどのりんし)に歌を送ったところ、藤原道長の眼にとまり挙周は和泉守になれたという。
匡衡の没後、赤染衛門は出家するほどの夫おもいであり、周囲の人々の言葉によく耳を傾けるしっかりとした包容力のある穏やかな性格で、紫式部も賞賛した才知を有し、和泉式部にならぶ歌人である。
藤原道長を主人公にした栄花物語の作家であるとも言われ、社交的で専門分野で活躍するとともに、良妻賢母でもあって、平安時代のスーパーウーマンといえよう。
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