陸軍が終戦直前に玉音放送を阻止しようと反乱を計画された、「宮城事件」がクローズアップされがちな終戦前後のゴタゴタですが、実は海軍でも抗戦派は存在していました。
その急先鋒が実は厚木基地だったのです。
厚木基地状況
海軍航空隊の基地として最精鋭、首都圏の最前線基地として稼働していた厚木基地は士気も高く装備も充実していました。
基地司令は斜め銃や夜間戦闘機「月光」の開発にも尽力した小園安名大佐でした。
厚木空は京浜地帯の艦載機迎撃、B-29要撃など、8月に入っても活発にその存在感を維持していた数少ない航空隊でもありました。
しかしその可動機も各地に分散され戦力は弱体化していました。
それでも8月15日まで敵艦載機との空戦を続けていることが記録されています。
玉音放送の後も
しかし同日、終戦がラジオによって玉音放送、つまり終戦が全国に伝えられました。
小園司令は同日、302航空隊に徹底抗戦を指示して直ちに航空隊はビラを撒くなどの行動に移ります。
事態を重く見た米内光政海軍大臣、ひいては皇族の高松宮などが説得工作に入りますが、小園は納得しません。
そんな中、多くの重鎮の説得を追い返していた小園がマラリアの再発で倒れ、病院に強制収容されます。
この時、昭和20年8月21日。終戦から6日後のことです。
旗頭を失った302航空隊の抗戦はこうして尻すぼみになっていきました。
反乱の結末
一部の士官らが小園の病院収容を納得せず抵抗しましたが、軍令部の工作や説得で3日後には沈静化しました。
21日午後、小園の懐刀であった山田飛行長が自決します。
一説には妻さえも伴った自決と言われていますが、通説的には小園の反乱を食い止められなかった中間管理職の責任でと言うことになっています。
彼の自決が完全に厚木航空隊の道を決めました。
厚木は鎮圧され、小園の収監と山田の自決からわずか8日後。
連合軍最高司令官、D・マッカーサーを迎えることになったのです。
D・マッカーサー
マッカーサーの到着後、東京に向かう米軍の車列に完全武装で背を向けながら直立不動する日本兵の動画は有名ですが、その直前まで厚木基地は揺れていたのです。
小園の決起がある程度成功していたら、マッカーサーの日本到着は阻止され9月2日のミズーリ号での降伏文書調印はなかったかもしれません。
終戦後も、歴史的に見て綱渡りな状況が続いていたと言えます。
※画像はイメージです。
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