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エルトゥールル号事件の裏話

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現在のトルコ、当時はオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号遭難事件は、今ではかなり有名になりました。
今回はなかなか知られていない、後日談をご紹介しますね。

エルトゥールル号は11カ月かけて1890年6月7日に日本へ到着したオスマン帝国最初の親善訪日使節団だったそう。
しかしエルトゥールル号自体が26年の老艦でやっと日本までたどり着いた感もあり、また乗員がコレラにかかったとか資金不足などで、ようやく9月15日に横浜を出港することになったが、台風の時期でもあるしと日本側が止めるのを振り切って出航したということです。

案の定、翌日に現在の紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難、500名以上の犠牲者を出し、司令官オスマン・パシャを含む600名以上が投げ出され69人が救出されたのですね。

樫野埼灯台に生存者が流れ着き、灯台守が手当てして言葉が通じないため国際信号旗でオスマントルコの軍艦と判明、そして通報を受けた現在の串本町の住民の皆さんが総出で、わずかな食糧のたくわえや衣類を持ち出して介抱にあたりました。
当時の新聞も大々的に報じたようで、義援金なども多数集まったということです。

そのあと、生存者69名を日本海軍のコルベット艦比叡と金剛がオスマン帝国の首都コンスタンティノープルまで送ったのですが、あの秋山真之も少尉候補生として乗船しました。
この時の話が「坂の上の雲」に登場していて、シンガポールでトルコ人の同胞から寄せられた寄付金を、トルコ軍の下士官がなんと比叡の一番分隊長坂本大尉に預かってほしいと言ったそうです。

坂本大尉はトルコ人の上官に託すべきで自分たち外国人に預けるべきではないと断ったのですが、トルコ人下士官は「トルコの支配階級は腐敗しきっている、盗賊に預けるようなものだ」と言うために、やむなく預かって金額などを記録したということです。
もちろんコンスタンティノープルに着いたときにはきちんと渡したはずです。

この小説が書かれたころは、エルトゥールル号遭難事件がトルコでは日本が信頼すべき国とまでいわれて語り伝えられる事件とは知られていなかったようですが、今となればその頃から大事なお金を託すほど信頼されていたのかとびっくりしますよね。

なおNHKでドラマ化されたときはこのエピソードは登場せず、予算とか色々あったのかもしれないけどもし外国で放送されることを考えたら入れた方が良かったのではないかと残念に思いましたです。

eyecatch source:Ottoman Empire, Public domain, via Wikimedia Commons

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