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織田信長の真骨頂を木津川河口海戦に見る

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石山本願寺戦から6年の天正4年(1576年)、浅井氏、朝倉氏、武田氏を破った余勢で織田信長は戦国時代最強である毛利・村上水軍に挑みました。
しかし織田水軍は毛利・村上水軍に完膚なきまでの大敗し、この海戦で信長は身をもって毛利・村上水軍の強さ、恐ろしさを知りました。

毛利・村上水軍の強さの秘密は敵水軍に接近して、焙烙と呼ばれる火薬を詰めた焼夷弾や火矢で織田水軍を次々に焼き払ったのです。
この海戦をきっかけに信長は如何にして毛利・村上水軍勝てるかを考え、どうすれば焙烙や火矢の攻撃をくらっても味方の艦船を焼かれずに済むのか信長は考えました。
そして誕生したのが戦国時代では初の鉄製巨艦、長さ12間(約22m)幅7間(約13m)の巨艦の鉄板で覆われた鉄張り船または鉄甲船と呼ばれた巨艦。
数にして7隻、信長は配下の滝川一益、九鬼嘉隆に命じて造船させました。

前の海戦、世にいう第1次木津川河口海戦の大敗より、2年後の天正6年(1578年)鉄甲船7隻を率いる九鬼嘉隆の織田水軍は石山本願寺に加勢する毛利・村上水軍を撃破するため、信長悲願を果たすため、大坂湾の木津川河口へと向かいます。
その途上て嘉隆率いる織田水軍7隻は石山本願寺に味方する雑賀衆の水軍数百隻と遭遇、手始めに嘉隆は鉄甲船の威力を見せつけます。

織田水軍は雑賀水軍に大砲(大鉄砲とも伝わります)をくらわし、雑賀水軍を撃破し30余船ほどを捕獲、意気揚々と大坂湾へと向かい海上封鎖をして信長の命令を受けた嘉隆は、毛利・村上水軍を待ち伏せします。そして姿を現した毛利・村上水軍その数は800余船の大艦隊、かたや大型船ではあるがわずか7隻、毛利・村上水軍は前の海戦の大敗に懲りず、また舐めた真似と思ったはずです。

■織田信長軍が使用したと言われる安宅船Unknown author / Public domain

そして第2次木津川河口海戦が天正6年11月に開始されます。
毛利・村上水軍は前の海戦同様に焙烙や火矢で織田水軍に接近して攻撃、しかし鉄に覆われた鉄甲船には通じません。
織田水軍7隻の鉄甲船から放たれた大砲をくらい火力の桁違いを思い知らされることとなります。

第2次木津川河口海戦は織田水軍の大勝利で幕を閉じ、この海戦勝利で信長は朝廷に働きかけ石山本願寺に和睦交渉の席につかせ、本願寺に対して石山から出て行かせることに成功します。
戦国時代最強であった毛利・村上水軍の撃破したことが12年に及んだ本願寺との抗争の幕を閉じる結果を生み出しました。
信長の天才性は自分の弱さを知ると弱さがなんであるかを見出だし、その弱さを解決する方法を見出だすことにあるようです。

毛利・村上水軍に完膚なきまで大敗した後、信長は何故敗れたのかを考察し、そして鉄甲船を考え出し、一益と嘉隆に鉄甲船を造船させて毛利・村上水軍に大勝利することができた。まさに天才信長の真骨頂を見たような気がします。


※画像はイメージです。

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