伝説の中から誕生したと伝えられる井伊家の謎を考察していきます。
井伊家に伝わる伝説
遠江国井伊谷(いいのや)井伊保(いいのほ)ともいわれます。
この井戸谷(現静岡県浜松市北区引佐町)は大昔は「井の国」と呼ばれ、清らかな水が湧き出る山間の土地。今もそこに広がる田んぼ中に白壁の塀に囲まれた、八幡宮(渭井神社)御手洗の井戸があります。
「寛政重修諸家譜」によれば、寛政7年(1010年)の元旦、井伊谷八幡の神主が社頭にお参りしたところ、瑞垣のかたわら御手洗の井戸のなかに今、生まれたばかりとおぼしき男の子が、いつの間にかいるのに気付きました。
その容貌が美しく立派で瞳は明るく輝いて、神主は不思議に思いながら、その子を抱いて家に帰ったそうです。
その御手洗の井戸は現在、龍潭寺と道を挟んだ田んぼにあるそうで、「井戸家伝記」には、神主はその男の子を自浄院(龍潭寺の前身)で産湯をつかわせ、粥を与えて我が子のごとくに育てたとあります。
この頃
この頃、公家の藤原共資(ふじわら もとすけ)は天皇の命令で、禁裏へ納める年貢の状況などを始め、政情や民情を見て回る巡検使として下向し、浜名湖を見下ろす敷智郡村櫛(ふちぐんむらくし)(現浜松市西区村櫛町・舘山寺温泉の南)の小丘に志津城を築いて居城しました。
その共資は、その子の出生に不思議と垪せて、眉目秀麗かつ聡明なことを耳にすると、共資には娘はいたが、倅はいなかったため、7才になっていた、この子をもらいうけて養い成長するにおよんで共保と名付け、その1人娘と結婚させて家督を相続させました。
そして共保は
「寛政重修諸家譜」に「共保壮年にいたりて器量人にすぐれ、勇武絶倫なり。ゆえに郷人ことごとくこれに従う」とあります。
共保は、やがて志津城から15キロを隔てた生誕の地の井伊谷に城を築いて移り住み、そして家名を藤原から井伊と改めました。
井伊家はこの共保を始祖とし、その出生伝説に因んで井伊家の家紋も生まれ、「寛永諸家系図伝」に「井より出生するゆへ、井桁(いげた)をもつて旗幕の紋とす。共保出生のとき、井のかたはらに橘一顆(たちばないっか)あり、このゆへに神主橘をもつて、共保が産衣の紋につけたり。これにより今にいたるまで、橘を衣類の紋とすといへり」とあります。
井伊家が徳川幕府に届け出た定紋(代表紋)は橘紋で、井桁紋は替紋として使用されました。
橘とは
その橘は不老不死伝説にまつわる果実です。
「古事記」「日本書紀」は田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命令で、不老の妙薬・非時香菓(ときじくのかくのこのみ)、つまり橘の実を常世国(とこよくに)から持ち帰ったといいますが、「井の国千年物語」に孫が荘園を管理する役人として、井伊谷に住みつき井戸のそばに住んだことから「井端谷(いばたや)」と名乗り、その三代目の篤茂(あつしげ)の娘を共保の母とする言い伝えがあり、その三宅氏の家紋が橘だったことから、共保に始まる井伊家は橘紋になったともいわれています。
不老の妙薬の橘の加護を受けたからだろうか、共保は平安時代としては珍しく、84年の長寿をまっとうし、井伊家の土台を築きました。
ちなみに
ちなみに謎深い井伊家系図は「先祖は藤原北家」は怪しいともいわれ、「寛政重修諸家譜」では井伊家は藤原北家の良門(よしかど)を祖とし、その三男・利世(としよ)から四代を経て共資、そして共保につながり、共保が井伊氏を名乗ったとしていますが、「尊?分脈(そんぴぶんみゃく)」に利世という人物は存在せず、新井白石も「藩翰譜(はんはんぷ)」の中で怪しいと疑問視しています。
「引佐町史」は、この疑問に答えて、「古代氏族系譜集成」を引用して、三国真人(みくにのまひと)系図に共資、共保につながる系図があることを指摘、三国真人は越前で生まれた継体天皇の皇子・椀木(まりこ)を曾祖父とする一族で、その友足(ともたり)の子孫が井伊家だとしています。
天武天皇の時代に八色(やくさ)の姓(かばね)が定められますが、真人は、その弟一位とされています。
この系図では
この系図では井伊氏は継体天皇の後裔ということりなり、龍潭寺には「井伊家伝記」を書いた祖山和尚が、また「井伊氏系譜」を残しているが、共良には少納言三国氏とあります。
良春は三国正五位蔵人頭、良宗に三国氏従五位筑前守と付記されており、藤原北家良門流と三国真人流が折衷されたものになっていると、「遠江井伊氏物語」はいう。
もう1つ「藩翰譜」は井伊介の系図の中に、武智麻呂(むちまろ)を祖する藤原南家の流れが紛れ込んでいると指摘していて、井伊家系図の謎が深いです。
※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!