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幻の北西航路~フランクリン遠征隊全滅の謎~

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北米大陸の北には島や半島が複雑に入り組んだ多島海が広がる。はるか大航海時代より探検家たちが魅せられ、挑み、姿を消した氷のラビリンスだ。
この極北の地で、長いこと行方知れずになっていたパズルのピースが2010年代半ばに見つかった。海底に眠る英海軍の軍艦が相次いで発見されたのだ。およそ170年前、母国を出航したのち消息を絶ったフランクリン隊のテラー号とエレバス号である。
「恐怖」と「暗黒界」を意味する不吉な艦名は一行の運命を暗示していたのだろうか。

ヨーロッパを西に発ち、大西洋からカナダ北方の群島部を抜けてアジアに至る北西航路。夢の航路の全貌は冒険者たちの踏査によって徐々に解き明かされてきた。人跡未踏の海域は少しずつ小さくなり、ようやくジョン・フランクリン大佐によって完全踏破が達成されるはずだった。

成功を約束された遠征は、なぜ世紀の遭難劇に終わったのか。なぜ彼らは仲間を食べねばならなかったのか。
職業軍人のプライドをかけて地図なき迷宮に挑み、帰らなかった男たちの足どりを追う。

目次

夢の北西航路

アジアへの最短海路の発見はヨーロッパ人の宿願だった。15世紀のクリストファー・コロンブスの航海以来、多くの探検家が富と栄誉を求めて夢の航路の開拓に情熱を燃やした。
北西航路とは、北米大陸の北を回航して太平洋に至る大圏航路のことで、ヨーロッパ大陸から北西に進路をとることからそう呼ばれる。アジアへの抜け道を見つければ、航海日数も費用も大幅に削減できる。

スペインとポルトガルに遅れをとった大英帝国では、19世紀にようやく極地探検が本格化する。七つの海を制したこの国もまた、清国との新たな貿易ルートを模索していたのだ。北西航路を拓くことができれば、自国領カナダを経由して、これまでよりずっと安全に航海できる。おまけに莫大な国益ももたらされる。北西航路探検は英海軍が主導したまぎれもない国家事業であり、そのために巨額の国費が投じられた。また、そこからナイトの爵位に叙せられたヒーローも次々に生まれた。夢の航路の発見に英国は賭けていたのだ。

約181,300平方キロメートルの未踏域を残すだけになった1845年、海軍本部副大臣バロウ卿は勝負にでる。横断航海をめざして遠征隊を結集させたのだ。バロウによる指揮官の指名を何名かが丁重に辞退したあと、最終的に声がかかったのがフランクリン大佐だった。このとき、59歳。後手に回った理由は年齢である。
第三候補だったフィッツジェームズ大佐がエレバスの艦長として、そしてやはりフランクリンの前に候補に挙がったであろうクロージャー大佐がテラー艦長として脇を固めることが決まった。

海図はなかった。海図を完成させるのが彼らの任務だった。

約束された成功

悲劇の遠征を率いることになったフランクリン卿だが、なにも貧乏くじを引かされたわけではない。この大役を熱望したのは、ほかならぬ本人だった。
彼は過去に三度北極海を探検した経験をもち、その功績からナイト爵に叙せられた海軍の英雄。うち二回は隊長をつとめ、とりわけ隊員の半数が餓死した二度めの探検では、靴を食べて生きのびた胆力から「ブーツを食べた男」と勇名をはせた。

四度目の遠征の備えは万全だった。
士官24名、下士官兵110名、総勢134名の隊員は選び抜かれた精鋭たち。テラーとエレバスは蒸気機関、スチーム暖房、真水供給装置といった先端技術が導入された最新鋭の艦船。食料庫には3年はもつ潤沢な食糧が積み込まれ、図書室には1,200冊もの蔵書がおさめられた。
国の期待を一身に背負い、おそらく本人たちも成功を確信して、彼らはテムズ川河口グリーンハイスを旅立った。1845年5月19日の朝のことである。
初夏、一行はグリーンランド西岸に入港して故国に送る手紙を託す。ここで5人の隊員が任務を解かれて下船した。129名となった遠征隊は、同月28日、バフィン湾に停泊しているところを捕鯨船が視認している。これがヨーロッパ人による最後の確認情報であり、この日以降、行方は杳としてわからなくなる。

三度めの夏が訪れても、音信はなかった。
フランクリンはすでに世を去っていたのである。

謎の体調不良と最初の犠牲者

盤石の態勢で臨んだ遠征隊になにが起きたのか。
捜索隊が次々と派遣されたが、より多くの人命が北の海に消えた。捜索者たちが未知の島や海峡をいくつも発見したことで、海図の空白部分が埋まるという皮肉な副産物ももたらされた。

テラーとエレバスには3年分の物資があったことから、遭難後もしばらくは生存できただろうと当初は考えられていた。しかし遺物の発見やイヌイットの証言によって想定外の危難が浮き彫りになっていく。

捕鯨船に目撃された1845年7月以降も2隻は順調に北上を続けていた。が、悲劇はすでにはじまっていたのである。体調不良を訴える者が日に日に増えていくのだが、原因がいっこうにわからない。
秋になり、海氷に進路をふさがれてしまったため、ビーチー島で越冬する。年が明けた1月1日、最初の犠牲者がでた。指導機関員のトーリントンだった。ハートネル、ブレインも続いた。彼らの墓標が島で発見されたのは4年後のことだ。
1984年に科学者チームがトーリントンの墓を掘り起こしたところ、ミイラ化してはいるものの、永久凍土で冷凍保存された非常に状態のよい遺骸が見つかった。まるで生きているかのようにこちらを見て、白い歯をのぞかせているトーリントンの写真は「笑う遺体」として有名なので、あなたもどこかで目にしたことがあるかもしれない。

乱氷帯から脱出するには時間がかかった。ようやく出航できたころには、その年も半分を過ぎていた。めざすはキングウィリアム島。この島こそ129名が生き延びようとした舞台であり、のちにおびただしい数の屍が見つかった呪わしい場所である。

ところが、島の西側まできたところでまたしても氷に行く手を阻まれた。しかたなく、ここで二度めの冬を越すことになる。
それでも船内は暖かく快適で、食料にも不足はないはずだった。越冬は見越していたはずだった。そのための潤沢な物資である。短い夏のあいだに行けるところまで行き、越年して、ふたたび出発するのが砕氷船なき時代のセオリーだった。隊員たちは、氷から解放される日をさぞや待ち望んだことだろう。

しかし、2隻が島を発つことはなかった。
船は棄てられたのだ。

指揮官の死

ただの一人も生還者がいないことから、遭難・全滅に至った経緯は今も謎に包まれている。
フランクリンが絶命していたことがわかったのは、英国を発って14年後の1859年だった。遠征隊の行程が記された紙切れが島の石塚で見つかったのだ。この書き置きはフランクリン隊の男たちが残したもので、英語、スペイン語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、デンマーク語でメッセージがこう書かれていた。
「これを発見した者に請う。文書の内容を英国領事館か英海軍本部に報告されたし」

メモは1847年5月24日に書かれ、そのあと1848年4月25日に追記されていて、最初の部分には「埋葬した3名以外は全員無事である」こと、追記の部分には「キングウィリアム島で越冬中に指揮官を含む24名が死亡した」こと、「生存者は春になって船を棄て、陸路カナダ本土に向かった」ことが記されていた。つまり、一行は二度めの冬だけでなく三度めの冬も同じ海域に閉じ込められていたのだ。船を棄てるまで、じつに1年7か月ものあいだ。
足どりを整理するとこうなる。
1846年9月、2隻はキングウィリアム島沖で海氷につかまった。身動きがとれないまま、フランクリンが1847年6月11日にこの世を去る。結局その年は氷が解けず、もう一冬立ち往生するはめになり、そのあいだに多くの仲間が死んだ。あくる年の4月、生存者はついに船を放棄して、本土のバック川へ行軍をはじめた。

まず気になるのは、船を棄てるまでに2割近くの隊員が命を落としていることだ。この時点で船内に深刻な異常事態が起きていたのはまちがいない。

氷上のデス・マーチ

隊長の死後、指揮権はクロージャー大佐に移った。生存者はクロージャーに率いられ、死者の続出する船をあとにして南へ向かう。すでに目的は横断航海から「生存すること」にシフトしていたのだろう。
105名は凍った海を歩いて渡り、まずはキングウィリアム島に上陸した。ここで石塚に伝言を残す。誰かが早く見つけてくれることを祈りながら。
バック川河口までは約370キロ。おかしなことに、大切な食料であるはずの缶詰を彼らは船に放棄した。

わかっているのはここまでであり、行方は明らかになっていない。ただ島の西岸・南岸に点々と連なる人骨の道しるべが、彼らが次々に力尽きたことを示しているだけだ。最後の生き残りがどこまで到達したのかは定かではないが、チャントリー湾以南では遺骨や遺物は見つかっていない。
人骨を調査したところ、遺体の解体痕や肉を骨から削ぎ落とした痕、鍋で煮た痕跡など、食人行為を示す証拠がたくさんみられた。想像を絶する飢餓状態に陥っていたことは確かである。

島の南岸では、飢えた白人の一行に会ったという地元のイヌイットの証言も得られた。見るに見かねて食料を分け与えようとしたところ、白人たちは頑として受け取ろうとしなかったという。
それは大英帝国軍人の矜持だったのか、探検家の矜持だったのか。それとも先住民への蔑視感情がそうさせたのだろうか。

なぜ遠征は失敗したか

フランクリン隊全滅は極地探検史の大いなる謎であり、これまで諸説が唱えられてきたが、先に述べたように確たる原因はわかっていない。

鉛中毒

なぜ牙城である艦船を放棄したのか。
船にとどまれば暖がとれて食料もある。次の夏には海氷が薄くなって脱出できるかもしれない。それでも拠点を棄てたのだから、よほどのことがあったのだろう。となれば、考えられるのは、それ以上船内にはいられない差し迫った理由があったということだ。すなわち謎の死者の続出である。
体調不良の原因は、おそらく保存食の缶詰ではないかと彼らは考えた。だから缶詰をもたずに船をあとにした。食料が食料たりえなくなってしまったために、陸で狩場や漁場を探さざるをえなくなったのではないか。

隊員の骨には基準値をはるかに超える濃度の鉛と、壊血病を引き起こすビタミンC不足が認められている。長いこと海氷に閉じ込められていた船には、壊血病を予防する新鮮な食材は残っていなかったと思われる。栄養を摂るはずの食料が毒になり、疾病が蔓延したのではないか。
鉛の摂取源としてまず考えられたのが、積み込まれた8,000個の缶詰だった。準備期間の短さがたたり、缶詰は雑につくられたため、はんだ付けされた鉛が食品に溶けだしていた可能性があった。
近年の研究では、鉛中毒の主因は、この遠征隊に特別に装備された水の蒸留装置だったことがわかっている。

フランクリンの誤った地理認識

フランクリンは遠征中に誕生日を二度迎えた。年齢を鑑みるに、指揮官は荷が勝ちすぎると心配する声が出発前からあがっていたという。死因は心臓疾患とみられているが、石塚に残されたメモはなにも伝えておらず、埋葬場所も不明である。わかっているのは、多事多難な状況下でリーダーを失ったという事実だけだ。

そのフランクリンの采配こそが遠征を失敗に導いた真因だという見方もある。彼はヴィクトリア海峡でキングウィリアム島の西側を南下するルートを選んだが、この判断が二冬にわたる越冬を招いてしまい、のちの悲劇につながったというのだ。島の西側は北極海から大量の流氷が押し寄せる危険海域で、夏でも氷が解けるとはかぎらない。これが島の東側なら夏には氷が消えるため、脱出することができた。
ではなぜ彼はリスクの高い西側を選んだのか?
それしか選択肢がなかったのだ。当時、まだこの島は地図化されておらず、北米大陸と陸続きの半島だと考えられていた。島の東が陸と地続きなら通り抜けることはできない。過去にこの地にやってきた探検家は、誰一人として島の全貌を確認できなかった。フランクリン隊の図書室には先人の残した記録がたくさんおさめられていたが、どの文献にもキングウィリアム島が島だとは書かれていなかったのである。

国家の大事業のリーダーとして任務にあたる重責がどれほどのものか、筆者には推し量れない。少なくとも、想定外のトラブルに見舞われたぐらいでやすやすと引き返すことはできなかっただろう。行く手に文字どおり暗黒と恐怖の世界が待ち受けていようと、彼のなかに退却の二文字はなかったのではないか。

クロージャーの選択

新たな指揮官となったクロージャーは、なぜバック川をめざしたのか。「世紀の遭難劇」をめぐる謎のなかで、もっとも不可解な行動がこれである。海軍の軍人であり、航海を目的としていた彼らには、徒歩行軍の装備もなければ訓練も受けていなかった。距離を考えただけで素人目にも自殺行為だとわかる。
しいて目的を挙げるなら、上流にある母国の毛皮会社の工場をめざしたとしか考えられない。しかしバック川を踏査したバックによると、この川は曲がりくねった急流が300キロ以上も続くうえに足場の悪い湿地帯や危険な滝壺も多く、道のりは過酷をきわめる。運よく河口にたどり着けたとして、目的地に到達するには、そこから川をさかのぼらなければならない。極地探検においては、むしろフランクリンより玄人であるクロージャーがそれをリサーチしていないわけがない。

そこより生存の可能性が期待できる場所はほかにあった。
めざすべきは南のバック川ではなく、北のフリービーチだった。フリービーチとは、かつてパリーが北西航路探検でフリー号を座礁させたポイントで、そこには大量の物資や保存食が放棄されたままになっていた。パリーの遠征隊にクロージャーは参加しており、まさにその現場にいたのである。パリー隊の数年後に遭難した探検隊がそれらを利用して生還したことも、食料がまだたくさん残されていることも、彼は知っていたはずなのだ。

クロージャーは正常な判断力を失っていたのだろうか?
極地のような日常とかけ離れた環境に長くいると、ただでさえ神経がまいってしまい、越冬症候群になることがある。鉛中毒による脳障害があらわれていた可能性も捨てきれない。

沈没船の呪い

オカルトめいた話としては極北の呪いがある。イヌイットの言い伝えによると、2隻が閉じ込められた海域は人が踏み入ってはならない神聖な領域で、フランクリン隊は精霊の怒りを買って天罰が下ったというのだ。
カナダ政府主導による調査で不明艦が発見された際は、島の集落に住むイヌイットから抗議の声があがった。ダイバーの行為が沈没船にかけられた呪いを呼び覚ましてしまうという警告だった。実際に集落では、わずか2週間のうちに6人が事故や心臓発作で急死している。これが呪いだとすれば、なぜ調査チームではなくイヌイットに矛先を向けたのかわからない。

キングウィリアム島では、氷上を彷徨する「人のようで人ではないなにか」が多数目撃されている。現地の人々が呪いを恐れる気持ちもわからないではない。

地球温暖化で氷なき北極へ

大英帝国が果たせなかった北西航路横断航海の夢。人類による初踏破は、ロアール・アムンセンというノルウェー人の登場まで60年ほど待たなければならない。アムンセンは、フランクリン隊が西に回りこんだキングウィリアム島を小型船で東から回航し、正解ルートを英国に示したのだ。

こうして探検時代が終わると、今度は北西航路は海上輸送路にはなりえないという厳しい現実を突きつけられた。きわめて複雑な地形にあり、ほぼ1年じゅう氷結する海路など、どんな価値があるというのか。

ところが21世紀に入り、航行不可能だった北西航路が使える海へと変わりはじめた。北極海の氷の範囲が温暖化で縮小し、氷結する期間も短くなったのだ。
2007年夏には流氷の減少により航路が完全に開通。おそらく有史以来初めてのことだろう。2020年は北極域で記録的な高温となり、航路が88日間も開いた。

この航路が使用できる可能性が高まってきたことで、将来は世界の大動脈が大きく変わると予測される。北極海沿岸や氷の下に眠る天然資源の開発、輸送も容易になる。軍事面でいえば、軍艦、潜水艦、輸送艦隊がこの海路を利用して迅速に移動することも夢ではない。
ただし、北西航路開通は弊害も多く抱える。その筆頭が領有権の問題だ。新航路をめぐる対立はすでに起きている。
地球温暖化がもたらす問題は山積みであり、どれも深刻だ。

2036年夏には氷が消えるといわれる北極海。いったいフランクリン隊の誰が氷なき北極を予測しただろう。筆者もイメージがわかないが、その日は思いのほか早くやってきそうな気がする。

featured image:Illustrated London News, Public domain, via Wikimedia Commons

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