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風船爆弾~太平洋戦争、唯一アメリカ本土攻撃に成功した日本の兵器

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1941年、日本で12月8日を迎えたこの日に当時のイギリス領であったマレー半島、そしてアメリカ太平洋艦隊の拠点であるハワイ・真珠湾への日本軍の攻撃が行われ、米英を中心とする連合国との太平洋戦争が始まった。
緒戦で計画通りの快進撃を続け、開戦翌年の1942年2月には南方のスマトラ島の油田地帯を抑えるなどの戦果を挙げた日本陸海軍だったが、同年6月のミッドウェー海戦で海軍の主力の航空母艦4隻を一度に失う敗北を喫する。

良く知られているようにこのミッドウェー海戦を境に国力に勝るアメリカが反攻を開始し、太平洋の島伝いに西進して日本を圧倒、サイパン島を奪還するとそこから日本の主要都に絨毯爆撃を加え、最終的に降伏に追い込んだ。
アメリカも日本を降伏させるべくこうした日本の都市部を無差別に攻撃する爆撃・空襲を敢行した訳だが、規模や被害は規格にならないとは言え、日本も同様にアメリカ本土への攻撃を行っていた。

そうした日本のアメリカ本土攻撃の中には、現在では俗に風船爆弾として伝えられているものがあり、日本もまたアメリカの戦意を削ごうと考えた上でこの手法を用いたと考えられている。

目次

中国の偵察気球も日本の風船爆弾も偏西風を利用

2023年2月、アメリカやカナダの上空に中国の偵察気球が侵入している事が発覚し、その事態そのものはアメリカ政府自体は以前から認識していたものの、市民による目撃でマスコミでも報道され静観できなくなった。
この中国の偵察用の気球は最終的にはアメリカ空軍のF-22ラプターによる空対空ミサイルでの撃墜と言う形で処理され、アメリカ政府や軍は公となってしまったが故に強硬策を取らざるを得なくなった感が強い。

この偵察気球も中国側の言い分は、民間の気象観測用のものが意図せぬ偏西風の煽りを受けて予定するコースを離れ、アメリカの上空へと到達したと釈明したが、真偽はともかく風船爆弾も同様の風を利用したものだ。
地理的に見れば中国も日本も太平洋を挟んでアメリカ本土から見れば西に位置しており、アメリカ方面に向けて東に吹く偏西風を利用したと言う点では偵察気球も風船爆弾も同じ手法だったと言える。

風船爆弾と言う用語そのものは、太平洋戦争敗戦後に日本のマスメディアが名付けたものとされており、当時は気球爆弾と呼ばれていた模様で、陸軍ではそれを「ふ号兵器」と呼びアメリカ本土攻撃を行った。

日本陸軍による「ふ号兵器」の実用化

風船爆弾の源流は1930年代前半にまで遡ると考えられており、当時の満州において対峙するソ連の都市・ウラジオストクに対し、気球に爆弾を搭載して攻撃しようという構想が陸軍内で出されていたと伝わっている。
これを具体化させたのは当時陸軍に在籍していた近藤至誠少佐であり、風船爆弾の実用化を陸軍に進言するも聞き入れられず、軍を辞して独自に研究を続け、1939年には関東軍にその研究が受け入れられる。

近藤自身は翌1940年に病気によって他界するも、風船爆弾の開発は陸軍の登戸研究所で継続され、近藤の発案の和紙及び蒟蒻糊で製造された気球に水素を充填し、偏西風を利用してアメリカ本土を攻撃する事を目指した。
この偏西風を利用して風船爆弾を太平洋を横断させてアメリカ本土を攻撃しようと言う着想は、当時の高層気象台が世界で初めて偏西風の存在を認知した事に端を発し、アメリカはその自然現象を知らなかったと言う。
1941年の太平洋戦争の開戦の後、日本海軍は潜水艦に搭載した航空機による爆撃や、潜水艦自体による浮上後の砲撃などでアメリカ本土への攻撃を行っていたが、ここで俄かに風船爆弾への着目が進む。

潜水艦を用いたのもにせよ、風船爆弾にせよ、攻撃の効果と言う点では極めて微細ではあるものの、アメリカ本土を日本側が攻撃し得ると言う事実が与えるであろう、アメリカ国民への心理的な効果が期待された。
風船爆弾に用いられた気球は、直径は凡そ10メートルで、搭載されたのは15キログラム爆弾1発及び5キログラムの焼夷弾2発で、総重量は凡そ200キログラム程で、1943年11月には試作品の完成まで漕ぎつけた。

翌1944年2月~3月には宮城県の海岸において試作品の風船爆弾の実験が行われ、その結果を受けて1944年末から1945年頭での攻撃計画が練られ、1944年11月に正式に陸軍は「ふ号兵器」としてその実用化を果たした。

陸軍の登戸研究所

前述したように風船爆弾には標準の兵装として、15キログラム爆弾1発及び5キログラムの焼夷弾2発が積載される形式となったが、陸軍における特殊な兵器を開発していた登戸研究所は別のものも準備していた。
陸軍の登戸研究所では当時化学兵器や生物兵器の研究も実施しており、殊にその中の第七研究班は「ふ号兵器」に搭載する目的で牛痘ウィルスを手掛けていたとされるが、この搭載は結果的には実現しなかった。

これは陸軍の梅津参謀総長が1944年10月に上奏を行った折、昭和天皇が風船爆弾でのアメリカ本土攻撃は認めたものの、生物兵器の使用迄は認めなかった為と伝えられており、生物学者でもあった昭和天皇の知見故であろう。
登戸研究所と言えばこうした生物兵器や化学兵器に加え、実用化には至らなかったとは言え原子爆弾の開発も行っており、特殊兵器の研究で知られているが、中国に向けた紙幣の大規模な偽造も手掛けた。

これは「杉作戦」として今日に伝えられているが、当時の価値で30億円意も上る精巧な偽造紙幣が国民党下の中国で流通したとされ、その混乱は後に中国共産党との内戦で国民党の支持が低下する事に繋がったとも言われている。

風船爆弾によるアメリカ本土攻撃の実施

1944年11月3日に風船爆弾によるアメリカ本土攻撃は「寅号試射」作戦と呼ばれて実施され、千葉県・茨城県・福島県の3箇所に設けられた拠点から翌1945年3月まで合計で凡そ9,300発が放たれたとされている。

これら放たれた凡そ9,300発の風船爆弾は日本側の推計では最大で1,000発程がアメリカ本土に到達したのではないかと考えられているが、アメリカの公的な記録では285発とされており、かなりの乖離がある。
しかし何れにせよ人的な被害と言う点においては、1945年5月5日にオレゴン州に落ち不発状態であった風船爆弾に不用意に接触し、子供5名と教師1名の計6名が落命した記録が報告されているのみである。

風船爆弾による損害自体は非常に軽微なものに過ぎなかったと言えると思えるが、アメリカ陸軍では当初日本側も生物兵器の搭載を検討したようにその危険性を察知しており、不発弾の回収者らはガスマスクと防護服の着用が行われた。
日本側が風船爆弾によるアメリカ本土攻撃に期待した、アメリカ国民への心理的な動揺をもたらす効果は同国政府も危惧していた為、徹底した箝口令を実施し、日本は敗戦後まで1944年12月の新聞報道以外その成果を知る事は出来なった。

日本が1945年3月に風船爆弾による攻撃を中止した理由は、アメリカによる自国への空襲の被害が嵩み継続が物理的に困難となった事、偏西風が弱い時期になった事が大きいが、戦果が見えないと言う点も少なからず影響したのだろう。

兵器としての風船爆弾の評価

これまで見てきた事を踏まえて考えるならば、兵器としての風船爆弾は元々物理的な攻撃の成果を挙げると言う事以外に、アメリカ国民に心理的な脅威を与えると言う目的に照らしても効果は薄かったと言わざるを得ない。
アメリカ政府側がそうした影響を鑑みて徹底した箝口令を敷き、それが見事に成功したからこそそう思えるのだが、潜水艦による艦載機での空襲や、それ自体の砲撃などは少なからぬ衝撃を実際に生じさせていた。

そのそもアメリカは2001年9月11日に起こった同時多発テロで、こうした日本からの攻撃以来久々に自国への直接の被害を被った事で、その後は大量破壊兵器の保有の可能性と言う名目でイラク戦争までも引き起こした。
それにしても日本を遥かに凌駕する国力を持ち、工業生産や技術力でも桁違いだったアメリカが、気象の一分野とは言え当時偏西風を認識していなかったと言うのは正に文字通り盲点だったのだろう。

それを考えると2023年2月の中国による偵察衛星のアメリカ上空への侵入も、風船爆弾と同様に地理的な位置関係から偏西風を利用した点など共通しており、表現するのが難しい感覚を抱かずにはおれない。

featured image:U.S. Army, Public domain, via Wikimedia Commons

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