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自ら先陣を切る蒲生氏郷の鯰尾の兜に秘めらた想いをよむ。

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どうしても戦国時代というと、家来に辛くあたる主君が多いような印象ですが実際はどうだったのでしょうか?
よくよく調べて見ると生涯に30数人の家来を手討ちにして何とも思わない細川忠興のような主君は極端な例で、出世した大名ほど家来を大切にしていました。

その双璧と言えるのが蒲生氏郷と加藤嘉明です。
その1人の氏郷は2人の英傑の織田信長と豊臣秀吉から目をかけられた数少ない戦国武将、武勇に優れていて天下人となった秀吉に「百万の兵を指揮させたら誰よりも氏郷が一番」と言わしめたほどです。

茶の湯にも通じ、千利休に師事して「利休七哲」の1人にも数えられています。まさに文武両道の武将です。一方の加藤嘉明は、ご存知の福島正則や加藤清正同様、秀吉子飼い衆の1人で賤ヶ岳の七本槍の猛将、秀吉が亡くなると「武断派」の1人で嘉明は、石田三成と対立、関ヶ原で徳川家康に味方して伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主にもなっています。

そんな氏郷と嘉明は家来に対する思いやりは並外れていました。それを裏付ける逸話があります。
氏郷は月に1回、屋敷に家臣を集め会議を開くのを恒例にしていました。出席者は長幼や禄高にかかわらず自由に発言させ、会議が終わると氏郷自ら家来のために風呂を沸かしたり酒肴をふるまったりしたそうです。

新参者が同席すると「もしも、戦場で銀の鯰尾の兜をかぶり、先を駆ける者を見かけたら、その者に負けぬように働くことだ」その鯰尾の兜をかぶった者とは氏郷自身のことだった。氏郷がかぶったとされるこの鯰尾の兜は現存こそしていませんが、氏郷が南部家に贈ったとされる燕の尾をモチーフとしたほぼ黒一色の兜が伝わっています。

文字通り上部が燕の尾を思わせる二又に分かれた斬新なデザインで、この兜をかぶり軍馬に打ち跨がった姿はきっと味方を鼓舞し、敵を大いに畏怖させたことが想像できます。氏郷は部下思いの半面、命令違反には厳しく対処したそうです。

あるとき家来の1人に鯰尾の兜を預け「ここを動いてはならぬ」と命じ見廻りに出ました。戻ってくると、その家来は別の場所にいました。そこで「ここを動いてはならぬ」ともう一度言い、再び見廻りに出て戻ってくるとまたも家来はその場にいなく、氏郷は家来を呼び寄せると一刀のもとに斬り捨てたそうで、たんに優しいだけの武将ではなかったようです。

少し出来すぎた話しの気がしますが、家来にとってはこれ以上ない家来思いの主君だったことは間違いないようです。

eyecatch source:Edo-period artist, Public domain, via Wikimedia Commons

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